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パラ=セックス

「B子、起きた?」

キッチンから戻ってきたA子が「気分はどう?」と言って、テーブルの上にトレイを置いた。

「ちょっと、あつい……かも」

すん、と鼻を鳴らすと、数カ月の 自粛 のせいで忘れかけていた懐かしい香りがする。ベッドに横たわったままでも、何が運ばれてきたかはよく分かった。A子の作る手料理は、レバニラしか食べたことがなかったから。あとは、ゆでこぼしただけのほうれん草と、温めたレトルトご飯くらい。味が薄いというよりはただ単調で、唐辛子をたくさんかけてやっと完成する料理だと、わたしは思っている。

「ねぇ、今日はピザでも頼まない? ほんとはね、レバニラってあんまり好きじゃないの。女の子っぽくなくて、いや」

「でも、 これ の後はちゃんと鉄分を取るって約束でしょ? ね、頑張って作ったから」

A子がわたしの顔を覗き込む。飛び込んでしまいたくなるほど綺麗な瞳の向こうにあるのは、興奮、慈愛、後悔、困惑、あとは……なんだろう? もっと、もっと教えて。

白い不織布のマスクを外して、そっと裏返す。点々と飛び散った血が、乾いて茶色く固まっていた。きっと、A子の黒いウレタンマスクにもわたしの血が染み込んでいるのだろう。ベッドに敷かれたごわごわの大きな白いタオルにも、擦れて伸びた血の跡が小さな花のように広がっている。鼻を押しつけると、A子と同じ柔軟剤のいい匂いがした。

じくじくとした痛みが走って、また身体が熱くなる。思い出すだけでドキドキする。気を失っている間に腕に巻かれた包帯の下には、A子とわたしがつけた切り傷がたくさん並んでいるはずだ。頬には四角く折ったガーゼが貼られていて、上から撫でるたびに殴られた痛みを思い出す。首についた指の跡は数日も経てば消えるけど、それまでは何度だって鏡に見とれてしまうだろう。

じわ、と涙がにじんで、目尻から流れる。A子は、今でもわたしが泣くのには慣れていないようだった。

「A子、撫でてよ。まだ、ちょっと痛むみたい」

……ん」

お腹をそっとなぞるA子の指が、かさかさした古い火傷の跡を削り取るように辿っていく。何度も、何度も。このぽつぽつとした醜い傷だけは、A子のものではなかった。わたしの痛みは、A子だけのものなのに。だから、もっと消して。全部消して。嬉しい。嬉しい。A子、A子!

わたしだって、A子への欲望がリモートやバーチャルで満たされるなら、それでよかった。画面越しにA子の声を聴いて、彼女の 道具 になったわたしの手で自分を痛めつけて満足できるなら、ずっとそうしていたかった。でも、画面の中のA子はわたしの目を見てくれないから。画面の中のA子はわたしに手料理を食べさせてくれないから。目の前に置かれているのは美味しくもないデリバリーのレバニラだけで、そこには誰もいなかった。離れていても心は通じるなんて、嘘だ。

A子が画面の向こうから届けてくれるレバニラは、最悪なことに、A子の手料理よりも美味しかった。ちゃんとレバーを素揚げしてあって、味も濃くて、野菜とのバランスも完璧だから。でも、わたしはどうしても好きになれなかった。泣きながら一人で食べるご飯の味を噛み締めていると、A子の匂いを忘れそうになってしまうから。

「B子。泣かないで」

A子はそう言うと、おしゃぶりでもくわえさせるように、わたしの口にココアシガレットを挿し込んだ。唇で端を支えて舌を動かすと、ココアとハッカのすっとした匂いと一緒に、安っぽい砂糖の甘さがまとわりつく。ぼんやりと吸い口を舐めるわたしを見下ろしながら、A子もゆっくりと小さなラムネ菓子をくわえた。

ココアシガレットはたばこのおもちゃだ。煙は出ないし、熱くならないし、奥歯で噛み砕いたって苦くもない。心が落ち着かないときは、いつもこれがよく効く。小さな箱にたったの6本しか入っていないから、30箱入りの大きなケースを買っても、たった180本。一人でいる間はすぐにガリガリと噛んでしまうから、3日もあれば空っぽになるだろう。

おもちゃは火を使わないから好きだ。パパのことを思い出さなくて済むから。

「ね、キスしてよ」

ココアを溶かしたみたいに甘えた目つきで見上げると、それに応えてA子がそっと顔が近づける。こつ、と二人の火先を合わせるだけの、おもちゃのシガーキス。火を渡すという本来の意味をすっかり失った、ただの遊びのキス。それなのに、燃え上がる先端を何度も何度も擦り合わせているだけで、くらくらと息が浅くなっていくのが分かった。

A子の動きが止まるまで、ずっとそうしていた気がする。ただのおもちゃに意味を与えるように、本物を上から塗りつぶすように。夢中になってA子を貪っているうちに、わたしの頬にぽつぽつとしずくが降りそそいでいた。たばこの火のように熱くて苦しいのに、ハッカのように冷たくて心地いい。A子が落とした小さな炎が、わたしに伝って燃え上がる。

そんなA子の涙と一緒に、食べかけのシガレットが頬に落ちた。思わずわたしの口もゆるんで、上から十字に重なるように倒れてしまう。A子は少し驚いた顔をして、それから、やっと自分が泣いているのに気付いたらしい。

「あ……B子、ごめん。ごめんね?」

ねぇ、泣かないでよ。わたしはA子の頬を撫でようとしたけれど、どうしても腕が動かない。べたべたした砂糖菓子が溶けて、身体に染み込んでしまったみたいだ。太い鎖できゅっと胸が締め付けられるような、かみそりなんかじゃ傷つけられない場所が裂けるような、ずんと重い痛み。上から押さえつけても止まらない。全然止まらない。痛い、痛い!

「大丈夫だよ、大丈夫だから。もっとしてよ、A子……

A子だけがここにいて、わたしに 本物の痛み を与えてくれる。嬉しくなって「この痛みも、A子のものだよ」と言って彼女を見上げるけれど、それを聞いたA子はさらに激しく泣きじゃくってしまった。どうして、どうして?

身体を燃やし尽くしてしまうかのような痛みが押し寄せて、わたしはまた気を失った。

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