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特殊な盆栽の取り扱いについて

世界的な松線虫の流行で、マツ科の樹木が急速に数を減らしていた。高砂地区の盆栽協会によれば、地域内の七十パーセントの松柏類が枯れ、残りの三十パーセントのうち半分には生育への影響が出ている。盆栽はこの開発過剰な都市で緑を所有するほぼ唯一の手段だったのもあり、人々は枯れた根張りを見て激しく落胆した。集団ストーカー撲滅の無断広告が残る雑居ビルの隅にまで、松くい虫を媒介する砂嵐模様のカミキリムシが大きく描かれた注意喚起のポスターが貼られているくらいだ。鉢植えに収まる程度の樹木であれば、目合が〇・五ミリメートル以下の赤色あるいは黄色のネットを被せればよいと協会のウェブサイトに記されている。

九月に入っても暑さが落ち着く気配はなかった。アーケードに降り注ぐ日光は分厚い半透明のテフゼル板を突き抜けて、猛暑の気配がひび割れたタイルブロックに影を落とす。夏が終われば松線虫の伝播はやむはずだが、それもまた秋の夢の先のことである。

そんな商業区画を通り過ぎて居住エリアのアパートに辿り着くまで、私はイズミのたどたどしい救援要請の意味を理解していなかった。言い方を変えると、イズミがただひどい暑さで外に出たくがないために、あるいは残り一ヶ月を切った夏休みの課題を手伝わせるために、要するにそういう怠惰の解消を手伝うつもりであった。ToxプロトコルのE2Eエンクロージャーに割り込むボットの存在を疑ってもいたが、あくまで可能性がある、という程度のことだ。

セーフティゴーグル、N95マスク、アイススコップ、ゴムハンマーと数日分の食料を二人分、それにフリーザーバッグとラベルプリンターのリフィルをたくさん。仮にこれらを通販で送るよう要請されていればスパムと断定できたのだが、イズミの連絡はあくまで「荷物を持ってすぐ家に来て!」というものだった。

結局のところ、イズミが私を部屋に入れようとドアを開けた瞬間に、その疑いは強烈な爽快感を伴う冷風と共に吹き飛ばされてしまった。いや、爽快と表現するには感覚の限界を超えている。眠気覚ましには桁が二つくらい多い刺激が私の視界を突き刺して、驚いた眼球から涙が流れ出て止まらなくなった。防犯用のOCガスとも似ているが、感じる熱の方向が違う。どうにか痺れるような冷気に目を慣らすと、目の前に飛び込んできたのは壁やテーブル、冷蔵庫、シンクの隅々まで真っ白になった光景と、その真ん中で青いセロハンテープカッターと銀色のお玉を握って立つエプロン姿のイズミである。やはり、催涙スプレーのようなものを持っている様子はない。

「あさひ! 急いで入って!」

腕を引くイズミが私の背中を追うようにくるりと入れ替って、身を引くようにしてドアを閉めた。錠をおろす所作で手を滑らせたのか、イズミの右手からお玉が滑り落ちて、老朽化が進んだコンクリートに生える大きな霜柱を壊したときのようなガシャリという音がする。真夏の玄関には似合わないその音に振り向くと、私の足元で透明な針っぽい結晶に包まれるように気絶したお玉が伸びていた。そっと靴を上げて下ろすと、同じようにみしり、ぴしゃりと結晶が折れてひしゃげるのが足裏から伝わっていく。

彼女の家は、少なくとも先月来た時はこんなではなかったはずだ。少なくとももう少し色があった。それが今は、記憶にある間取りはそのままに部屋全体がきめ細かい繭のような結晶で覆われている。もう何が起こっているのか分からない。窓を開けようにもクレセント錠の可動部に群がるように結晶が固まっているし、換気扇が動いていないのもおそらく同じ理由だろう。玄関の隙間を埋めるように走った結晶にはところどころ砕けた跡が残っていて、イズミが私を迎え入れるために苦労したのが分かる。

イズミの後ろに続いて靴を履いたまま部屋に入った。ダイニングテーブルがあったはずの位置を中心に、大きな塊が周囲に向かって を伸ばしていて、おそらくこの部屋の景色を一変させた原因なのだろう。時折、中からみしり、と音がして未だに内側から力が漏れ出ようとしているのを伺わせる。腕というのはそのわずかな流動性を生き物に例えたのであって、最大で直径五センチメートルほどに成長した鋭く針の立つ結晶は、柱だとか槍と呼んだ方がイメージしやすいかもしれない。

どうも、その塊の中心には結晶を生み出す別の(コア)が眠っているらしい。空気を含んで不規則に育っているせいか中を見通すのが難しいのだが、緑色と黒色の鉢植えのようなシルエットが見え隠れした。

その核が伸ばす槍の腕は、窓枠、換気扇、シンクといったわずかな出口を塞ぐようにそれらと密接に繋がっている。よく観察すると、周囲より温度が低い場所に集中して新たな巣を作っているわけだが、結晶の生育という点でより正確に論じるなら、昇華した物質が冷えて再び固着するという双方向の(しばしば天下り的な)運動である。しかしその選択的な動きは、空気を絶ってこの大きな繭の中で羽化を待っているように思えた。

「寝室はまだ大丈夫だから、あっちに荷物置きに行こ」

イズミが結晶の少ない床を選んで歩くので、よく見るとその道だけは木目調のクッションフロアが露わになっていた。寝室に向かうための即席のけもの道である。別に結晶を踏んだところで害はなさそうだが、知らない化学反応で靴を溶かされでもしたらたまらない。私も息を止めて注意深くイズミの跡をなぞった。マスクもせずに呼吸の仕方を少しでも間違うと、むき出しの鼻に昇華した冷感が突き刺さる。鼻の奥に小さな針結晶ができあがって取り除けなくなる想像をして、嫌になった。

寝室に入ると、確かにそこはまだ色を失っていなかった。窓の外には快晴の青空が広がっていて、夏を終わらせるには至らなかったことを悟る。靴の裏に残る透明な砂をぱらぱらと払うと、床にきらきらとした光が広がった。ドアの隙間からも、同じ光を放つ結晶が核から伸びて徐々に這い出てきている。

背負っていた荷物を下ろすと、狙い澄ましたかのようにイズミが後ろからぐりぐりと背中を押してきた。背の小さい彼女が身を屈めて体当たりすると、ちょうど私の腰を捕らえるのだ。イズミがこうして甘えるときは決まって泊まるようせがまれるのは当然覚えていたので、この緊急事態とのギャップに困惑してしまう。私の歯ブラシだって、まだあの結晶のずっと奥にあるのに。

「イズミ、今日は掃除を手伝ってほしかったんじゃないの? ねぇ……

「それはついで! もう鼻がおかしくなりそうで。ほんとに、もう、だめなの」

くぐもった声で私の服に顔を押し付け続けるイズミは、「あさひ成分」を補給すると称して服の匂いを嗅ぎ続けた。引き剥がそうにもこうなった彼女を止められる気がしないので、そのままの姿勢で話を聞き続ける。

彼女が言うには、この結晶現象の元凶は拾ってきた盆栽だという。その盆栽はゴミ捨て場に捨てられていて、葉の表面を覆うように薄くパリパリとした氷のような物質が付着していたらしく、それがいつの間にか重厚な層になってダイニングキッチン全体に広がってしまったらしい。一晩寝て放っていただけなのに、という彼女の言葉に何か反論したくなるが、この超常現象を前にするとどんな指摘も安っぽくなってしまう。

イズミが一通り私の匂いを摂取し終わると、すっかり正気に戻ったように私が持ってきた荷物を取り出して床に揃え始めた。ハンマーとスコップはあの塊を切り崩すためのものだったらしい。重いハンマー代わりのテープカッターに装着されていたセロテープは、引き出された端から巻き終わりまでべたべたに溶けて使い物にならなくなっていた。

彼女はそうして自分の採掘装備を身に付けてから、私にもそうするよう促す。普段着のまま本格的な装備を握ると、まるでプルトニウム回収の裏バイトに来たみたいだ。

「どうしてこんなの拾ってきたの」

「だって、メントールが採れる木だったらもったいないでしょ」

「メントール?」

「そう、今年ってメントールがすごく不足してるって聞いたから。袋に詰めてマルカートで売ろうと思ったんだけど、もう目も鼻も限界で限界で……

「あー……そういうこと」

虫除けにも涼を取るのにも最適なメントールは、近年の熱波が続く夏の必需品である。もちろん、今まさに猛威を振るっている松線虫の防除にも有効だろう。世界的なマツ不足のせいでメントール合成の根幹をなすピネンが不足しており、生産コストと品質が数十倍の天然メントールしか出回らない。ここに圧倒的な供給不足がさらに価格を跳ね上げ、フリマアプリのマルカートでは連日メントールの高額(かつほとんど違法な)転売が続いていた。

だから今ここは、突発的に湧いて出た夏限定の金鉱というわけで――

いや、そんなことがあるものか。いくら松枯れ病が流行しているからといって、この短期間で防虫剤を吐き出すような劇的な進化が遂げられるはずがない……というのは、常識で考えれば分かることだ。しかし、未だにメンソールの結晶が盆栽(コア)の内側から成長し続けているのを見ると、もはや現実を受け入れるしかなかった。

しばし考え込んだ末に、これはただのいたずらで収まるところではなく、松の木に線虫への耐性を身に着けさせる脱法的な遺伝子改良の失敗作かもしれない、と思った。これなら、貴重なメントールを生み出す盆栽がゴミ捨て場にあったことも説明がつく。つまり、このコストゼロのメンソール結晶を大量に売り捌いた利益を差し引いても取り戻せるか分からない、かなりの面倒ごとに巻き込まれつつあるということに他ならなかった。

「ちゃんと売り上げは半分こするから。ね、いいでしょ? いっしょにやろ?」

「お金はいらないけど……はぁ、何かの法律に引っかからないといいわね」

「どんな法律? 拾ったものを売るわけじゃないし、平気だって。プルトニウム回収の時より、よっぽどまし!」

イズミがこの盆栽を拾ったのは刑法上の問題だが、彼女の言う通り、プルトニウム回収のバイトよりも訴追されうる罪状はごく少ない。ましてや、元の持ち主が遺失届を提出するには特別法上違法である遺伝子操作の自白を伴うわけで、捨てたのを後悔しても名乗り出ることはないだろう。

マルカートの高額販売者ランキングに載るかどうかは関係なく、湧き出し続けるメントールの塊を早急に砕かなければ、早晩このアパートが文字通り盆栽に潰されてしまう。警察や消防を呼んだところで、こんなに真っ白で静かに広がる災害に手を出せるマニュアルなどあるわけがない。もし今ここから私が逃げたなら、イズミが私の分まで働かねばならないのはもう決まっていることだ。

お玉とテープカッターをスコップとハンマーに持ち替えたイズミに続いて、私も再びキッチンに足を踏み入れた。マスクとゴーグル越しの繭の中は、まるで空気にメントールが溶け込んでどろどろと流れ出しているように感じられる。

ばきん、ざくざくっ、ぱらぱら、ぺたり。ばきん、ざくっ、ぱらぱら、ぺたり。

ばきんっ、ざくっぱらぱら、ぺたり。ばきん、ばきん、ざくっぱらぱら、ぺたり。

ばきばきっ、ざくっ、ぱらぱら、さくっ、ぱら、ぺたり。

二人で勢いよくハンマーを振るって、吐き出された結晶をスコップで袋に詰める。詰め終わったらラベルを貼って箱に並べる。三十袋で箱がいっぱいになったら、後ろに積んで次の箱を取り出す。その繰り返しだ。かたくて重い水晶を砕いて回っているわけではないし、ハンマーを握る腕はほとんど疲れない。そのせいか余計に単調さから来る精神的な限界の方が近かった。マスクの中で古いアニメの主題歌を口ずさむと、イズミがそれに合わせてリズムを取る。少しだけ気が紛れた。

装備の隙間から漏れるメントールに目と鼻が狂い始めたら寝室で休憩して、また作業に戻る。寝室に座り込むたびに私の服の匂いを嗅いでいたイズミは、とうとうメントールの粉塵に覆われた服からの摂取を諦めて、私の素肌から 空気 を補給し始めた。私の服をめくってお腹の上に鼻を滑らせるものだから、くすぐったくて仕方ない。イズミの顔が脇腹に押し付けられると、鼻尖に残ったひんやりとした空気が軌跡を描いた。

「あさひも私の匂い、吸っていいからね」

「私はいいわ。イズミの匂いなんて嗅いでも落ち着かないし」

「えー? こういうのは人肌が一番なんだって」

「その言葉、夏に聞くと思わなかった」

イズミの休憩が終わるのに合わせてキッチンに戻る。部屋にあった空箱はあと五つだけで、それからは余った紙袋に突っ込んだり床に整列させて袋詰めの作業を続けた。買ってきたフリーザーバッグが底を突いたくらいでやっと、結晶を生み出し続ける不思議な盆栽の姿がはっきりと見えてくる。最近の高砂地区では貴重な三幹の五葉松だ。ただし、今はメントールの深い結晶に身を包んでいてわずかな剪定さえ受け付けない。

ひとまず窮地は脱したはずで、私はマルカートに掲載するためにメントール袋の写真をあれこれと撮り始めた。作業に取りかかる前はそのまま捨ててもいいとさえ思っていた厄介者だが、こんなに苦労して集めたなら報われてもいいだろうと、すっかり気持ちが変わっていた。イズミの方はメントールを売り捌くだけの出店登録をさっさと終わらせて、何やらごそごそと準備を進めている。

「ねぇ、まだ合鍵渡してなかったよね」

「そうね。別に必要もなかったし」

「じゃあ、あげる! 好きに掘っていいから」

イズミが取り出したのは、小さな赤い鈴のキーホルダーが付いた鍵だった。私が無言でそれを受け取ると、彼女は何も分からない様子でにこりと笑いかける。「たまに来てよ」だなんて、ただ自分の部屋が結晶に押し潰されるのが嫌なだけに決まっていた。イズミの気まぐれで私を部屋に泊まらせるのは、私の気持ちなんてどうでもいいからだ。

ころころと小気味よい音が鳴る鍵をバッグに滑り込ませる。サイドポケットの底に入り込んだ結晶が、鍵の先に当たって小さく砕ける音がした。


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