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喫茶店で
「で、今日こうやって私が紹介して、それでミカが買ってくれたら私に十パーセントの配当があるから――」
セントラルラインに乗ってわざわざ二時間かけてやってきた喫茶店で、私はなぜかマルチ商法の勧誘を受けていた。十パーセントの配当がもらえるから、何人に売れば回収できて、半年もすれば何百万円になるから……どこかで聞いたような話ばかり。
今日は全てがおかしい。数年ぶりに旧友に呼び出されていることも、私がそれに応えてここまで来てしまったことも。そのせいでおかしな儲け話に巻き込まれそうになっていることも。
そして、目の前の旧友が綺麗になっていることも。
アルバムで見慣れていたはずの彼女の顔は、まるで人が変わってしまったようにさっぱりと垢抜けている。その表情は都会じみた空気をまとっているものの、悪く言えば個性がなくなっていた。
ふと目線を落とすと、茶色い合成木の四角いテーブルに置かれたタブレットが延々と動画を流し続けている。妙なパースの3Dグラフや資金繰りを示す折れ線が、大きく広がったり上に伸びたりしているのを見ていると、視界がぐにゃりと歪む気がした。
「最近のオススメはこっちかな。サプリメントも悪くないんだけど、使用期限がないから廃棄が少なくて――」
そうやって商品を説明する声も、あの頃の気弱な彼女とは全く違う。本当に儲かると言わんばかりの自信に満ちたその声は、やはり同じ人とは思えないほど変わっていた。まるでスピーカーから流しているように安定した声は妙に明るくて、聞いているだけで私たちの温度差がぐんぐん広がっていくように思えた。
でも、上野でリニアを降りて地下深くからエスカレーターで改札まで上がる間、楽しそうに話す彼女はやはり昔と変わらなかった。私が先に入った一人用のパラキン1にわざわざ乗り込んできた彼女は、確かに懐かしい空気をまとっていた。
そうだとしたら、私は何をもって彼女を彼女だと思ったのだろう。どうしてあの日の彼女を懐かしんだのだろう。
「どう? 悪い話じゃないと思うんだけど」
そう言いながら、マミはオフホワイトのトートバッグから分厚いパンフレットを取り出して机に置いた。
胡散くさい笑顔で手を取り合う男女の写真が刷られた表紙には、儲かるだとか確実だとか根拠のない自信が(おそらく法律に抵触しない範囲で)散りばめられている。
「ちょっと待ちなさいよ」
その表紙をひったくるように裏返すと、マミの困惑した視線が私に突き刺さった。
「マミ、今日の話ってこれのことなの?」
「うん。でもこれだけじゃないよ。他にもいろいろ話したくて、だから呼んだの」
他に用事があったって、このネットワークビジネスのために呼んだのなら意味がない。私が聞いているのは、何の目的で呼ばれたのかってことだ。
「えーと、あのねぇ……」
要領を得ない彼女の発言に、私は思わず額に手を当ててしまう。マミもいらいらした時の私の くせ は覚えていたらしく、パンフレットをバッグにしまってから取り繕うように笑った。
「でも、リニアってすごいよね。すぐ会えるんだもん」
「そうね。超電導って本当に素敵な技術だわ。今すぐにでも帰ってみんなにも教えてあげたいくらい」
新型の超電導リニア特急がソーラーパネル畑の間を駆け抜けていく様子はそれなりに爽快だったし、あんな田舎からすぐに東京まで出られるのだって、確かに素晴らしいことなんだと思う。
でも、こんなことになると知っていたら来なかったのに。的外れな期待をした私がバカみたいだ。
「私を騙したの?」
「騙してないよ。話があるから来てって言っただけ」
確かに、マミは私に会う目的を告げなかった。言いにくいことなのかもしれないと、直接話さなきゃいけないことでもあるのだろうと、深読みして勝手に盛り上がっていたのは私の方だ。
だから、私が勝手に勘違いしていただけ。そうなのかもしれない。でも、そんなのただの言い訳だ。
「ミカ?」
マミは困った表情に曖昧な笑顔を混ぜて「ごめんね?」と、理解しているのかしていないのかよく分からない様子で私の顔を覗き込んだ。
「まぁ、いいわ」
溜息を吐く。冷静に考えれば、マミが私を騙そうとするわけなんてない。彼女だってそのうちおかしなビジネスに巻き込まれていたと気付くだろう。
それに、今さら怒ってもどうしようもないし、言った言わないの水掛け論でマミを困らせたいわけでもなかった。もう私に契約するつもりがないことはマミだって分かっているだろうから、後は話を合わせて適当なところで帰ればいい。
氷が解けて薄くなったカフェラテを、カップの角からゆっくり飲み干してテーブルに置く。落ち着いたら、さっきまで意識の外にいた目の前の奇妙な料理のことが気になり始めた。
「で、これって何のお肉なの?」
メニューに「ステーキ」とだけ書かれていたこの料理は、色や形こそ焼かれた厚切りの牛肉に見えるけど、レアもウェルダンもない噛み心地と、溢れる消毒液のような香りはまともな食べ物とは思えない。
とっても美味しくないんだけど、と小声で告げると、マミは意外そうな顔をする。同じ料理を頼んだ彼女がそんな顔をするなんて、きっと舌でも手術したんだろうと思うくらい、例えるならカルキ漬けの肉というのにふさわしい味だった。
「なんだろうね? 認証は通ってるみたいだし、ただの合成肉だと思うけど」
そう言ってから、マミはまた「ステーキ」を一切れ頬張った。もぐもぐ、ごくん。そして、別に美味しいけどなーと首を傾げる。ふざけているつもりはなさそうだ。私が口に手を当てて驚くのさえ、彼女には不思議らしい。
メニューを見ると、店名や営業時間の情報と共に正方形のシールが貼られている。マミの言う「認証」というのはこれのことだろうか。その横に印刷されたハラール認証のマークは知っているけど、フラスコの中に歯車を置いた金色のロゴに「A7相当」と記されたマークは見たこともなかった。
「口に合わなかったら自然肉にする? 言ったら変えてくれると思うよ」
そういって「すいませーん!」とウェイターを呼ぶマミを慌てて止める。私には「国産自然肉ハンバーグ」の代金を払えるほどの持ち合わせはなかった。また妙なお肉が出てきても困るし。
ため息をつく。マミってこんなに強引なやつだったっけ。
「ねぇ、マミ。あんた、整形したの?」
仕方なく頼んだアイスカフェラテのおかわりを飲みながら、私は気になっていたことを尋ねた。
的外れなことを聞いてしまったかもしれない。でも、駅で彼女を見た時の違和感はまだ私の中にある。いくら頑張ってメイクしたって、違う人に見えてしまうほど顔が変わってしまうとは思えなかったから。
「整形? うん……ちょっと違うけど、そんな感じ」
マミはまた曖昧な答えを返す。そのはっきりしない態度は昔の彼女の面影をぼんやりと残しつつ、今はただ隠しごとの微妙な気配を感じさせるだけだ。
私が何も言えずにいると、少しの沈黙が流れた後にマミが再び口を開く。
「足りないんだよね、あと少し。お金が」
マミはそう言いながら、ばつが悪そうな様子でタブレットをトートバックにしまいこんだ。
お金が、あと少し、足りない。足りないというのは、次の整形手術のお金のことだろうか。それとも、もはや当座の生活費すら危うい状態なのか。どちらにせよ、彼女の状況は褒められたものではないだろう。どんな理由であれ、詐欺まがいの商売にまで手を染めてしまったのだから。
「だから、こんな胡散臭いビジネスを始めたの?」
「うん。でもこれは確実に儲かるから――」
「じゃあ、なんでわざわざ私を呼んだのよ?」
彼女の言葉を遮るようにそう尋ねると、マミは面食らったように目を見開いた。
「だって、ミカに会いたかったから。そう言ったでしょ?」
「でも、私たち……もう終わったじゃない」
彼女に「会いたい」と告げられた時、私は密かに期待していた。マミがまだ私を好きで、忘れられなくて、告白するために呼んだのかもしれない。あるいは、恋人と別れたと一言告げるために。
流石にそれは言い過ぎだとしても、会いたいという言葉に嘘はないと思っていた。
でも、マミは? マミにとってそれは何でもない一言で、それに呼び寄せられた私なんてお金儲けの手段でしかなかったのだろうか。
「確かに私はマミにひどいことをしたわ。でも、それだってもう……だったら、仕返しのつもりなの?」
「そんなこと、どうでもいいよ。むしろ感謝してるくらい」
マミはどうでもいいよ、と吐き捨てるように言い放つ。私には、彼女が何を考えているのか分からなかった。
「じゃあ、どうして――」
「ミカに、完璧になった私を見てほしいと思って」
その質問を待っていたかのように、彼女はにやりと微笑んだ。「完璧」という言葉に、おぞましい憎しみが込められているような気がした。私がしたことに人生をかけて復讐しようとでもいうように。
背筋が震えるその感覚に、私は思わず立ち上がっていた。
「……私、帰るわ」
「あはっ、どうやって帰るの? 都民カードもないのに」
都民カード、という響きで思い出す。上野で長い長いエスカレーターに乗っている間、「
マミが改札でかざしていたピンク色のカードが「都民カード」なのだとしたら、私が東京に出入りし、滞在するには都民カードを持った誰か――これはもちろんマミのことだ――の協力が必要ということになる。つまり、今夜の私の寝床さえも、彼女の気まぐれということだ。
そんなこと知らなかった。どうして教えてくれなかったのよ、と座ったままのマミを見下ろすように睨みつけると、彼女はもう一度、いたずらっぽく笑った。
マミの家で
やはり、私は騙されていたらしい。結局、半ば強制的にマミの自宅に連れ込まれていた。マルチ商法の勧誘さえも壮大な謀略の一端で、本当は私にもっとひどいことを仕掛けようとしているんじゃなかろうか。
「マミ。そういえば、これ」
「あ、そうだった。ありがと」
恐る恐る紙袋を差し出すと、マミは嬉しそうにビニールの取っ手を掴んだ。
中身は近所のディスカウントストアで買ったビー玉だ。東京に来る前に持ってくるよう頼まれたのだ。どうしてそんなものを欲しがるのか私には分からなかったが、これで家に帰してもらえるなら安いものだ。
「別にいいけど、そんなの何に使うのよ」
「ペンダントが壊れちゃって。代わりに使おうかなって」
マミがそう言いながら袋の一つを取り出してビニールのネットを裂くと、メタリックな光沢を塗られた青いビー玉がぼとぼととフローリングにこぼれ落ちる。
「うん、ちゃんと転がるみたい……ミカ、ありがと」
急に何を始めたのだろうと彼女の顔をちらと見ると、マミはにまにまと笑っていた。ビー玉なんだから転がるのが当たり前じゃないだろうか。
「球体っていうのは、恩物の中でも理想の図形なんだよ。フレーベル氏が言ってた」
フレーベルについて聞き返すよりも先に、マミは恩物について話し始めた。
恩物は幼児向けの知育教材で、球体に始まり、立方体、直方体、プレート、棒、リングと様々な図形で遊ぶうちに自ら学ぶ力を身につけられるのだという。それぞれの図形は人間が必要とする概念の習得に重要で、その中で最も大切なのが球体らしい。
しかし、マミはどうして急にそんな話をしたのだろう。マルチ商法の時といい、東京に来たせいで変な宗教にでもハマっているんだろうか。
「だから、私たちには球体が必要なの。ビー玉でもね」
と、すらすらと話すマミの声を聞いていると、やはり昔と違うそのハリに違和感を覚えずにはいられなかった。
「マミ、昔よりずいぶん声が良くなったみたいね。ボイストレーニングでも通ってるの?」
「違うよ。声帯を機械化したの」
「機械化? どうしてそんなことしたのよ」
まるでスピーカーから流しているような声、と思ったのはあながち間違いではなかったらしい。ふと「私が変な声って言ったから?」と聞きそうになったけど、なぜか言葉に詰まった。
「アバター使って動画を配信しててね。毎日声を張るのが結構しんどかったから変えてみたの」
そう言って、マミはタブレットを操作して動画を再生する。銀髪ショートボブのアバターが、たくさんフリルの付いたウェイトレス風の可愛らしいオレンジ色のドレスを着て踊っていた。
『マミ、背中弱かったよね』
『んー……手術のせいで、もう感じなくなったんだよね』
『あら、そうなの』
『私、もう変じゃないよね?』
『えっ? そ、そうね……変じゃ、ないわ』
次の日、防災無線塔からの放送で、東京が数ヶ月の完全都市封鎖に入ったことを知らされた。既に東京にいる私のような
「マミ、どうして言ってくれなかったのよ」
「ごめんね。どうせ都民はずっと東京から出られないから、あんまり気にしてなかったの」
また、騙された。そう彼女を責めるより先に、マミは笑顔で身を乗り出してくる。
「それよりミカ、こっちで働かない?」
向こうより稼げるよ、というマミの言葉はやはり怪しい響きを含んでいた。
マルチ商法の手伝いか、あるいは身体でも売らされるのか、もしかしたらもっとひどい仕事かもしれないと身構えていたけれど、聞いてみると在宅でマミの動画配信を手伝えばいいらしい。
「ちょっとした吹き出し付けたりとか、効果音を差し込んだりしてくれればいいから」
「んー……そうね……」
悪い話ではなかったけど、マミがどうしてこんなにも私を気にしているのかがまだ分からない。つかみどころのない彼女に全てを委ねるのは、一抹の不安もあった。
でも、思い浮かぶのは、昨日まで住んでいた――県と、つまらなくて代わり映えのしない仕事の毎日。それがもう、今はずっと遠くにある。
「分かったわ、やってみる。よろしくね」
田舎特有の先が見えない閉塞感はもうここにはなくて、私が私として生きることを誰も否定したりしない。ありきたりな田舎者らしく、都市の自由に夢を見ていた。
一緒に住むならパートナーシップ2を取った方がいいよ、とマミが言う。都民カードがないと何かと不便だし、パートナーが都民なら転入手続きも通りやすくなるらしい。
「でも、まだ区役所が開いてないんじゃない?」
「ふふっ、ミカって面白いね」
ほとんどの手続きは都民カードとスマホがあればできるらしい。わざわざ区役所に行く人はもうほとんどいないし、窓口で手続きしたい場合はむしろ事前の予約が必要だという。
だって、そんなの知らなかったもの。
マミはブラウザを開いて何度かタップしながら、大昔に都民カードを紛失して以来行ってないよ、というような話をしていた。
スマホでの転入手続きはとてもシンプルだった。特に
マミが「――ミカゲ」「女」「二六――年・夏」と、知っている限りの私の情報を打ち込み始めた。たまに尋ねられるのは、両親の生年月日とか、これまでの恋愛遍歴(本当に必要なのかしら)くらいで、何年も離れていたのによくそんなに私のことを覚えているなと思う。
「じゃあ、アイリス撮るからこっち見て」
ぱしゃり。顔写真ではなく、虹彩のダイジェストを計算して記録するのだという。
『――時――分、登録が完了しました』
「じゃあ、私のカードでミカのスマホを登録するから、ちょっと貸してくれる?」
時報を聞いてふと時刻表示を見ると、五分ほど遅れていた。スマホの時計が狂うなんて聞いたことがないと思いながら何度かスワイプするけれど、どうにも直らない。
それ見たマミが「東京はTAI3ベースなんだよ」と言って、何度か都民カードをかざした。
ほとんどの買い物は通販で済ませていたけど、かさばる荷物は送料が高いからスーパーに出かけることがあった。
そうやってスーパーに行く途中、よく道端に倒れて動かなくなっている人がいる。ほとんどの人は血を吐いていて、ひどい時は皮膚が剥がれ落ちていることもあった。始めの頃は意識がないのを確認して救急車を呼んでいたけれど、道行く者が誰一人として目もくれないのを見ると、徐々に触れてはならないことのように思えてきてしまう。
だから、最近は私も足早に通り過ぎるのだ。次通った時にはもういませんように、と祈りながら。
その話をすると、マミは「変な病気が流行ってるらしいから、近づいちゃだめだよ。ミカも気をつけてね」と言う。そして、彼女が着けているのと同じビー玉のペンダントを私の首に掛けるのだ。
このおまじないには、どういう意味があるのかしら。
電気街で
家から出なくていい仕事だから、としきりに言っていたマミが、時折ミーティングと称してどこかに出かけているのは明らかにおかしかった。
朝早く出かけて、帰ってくるのは夕方くらい。スマホとカードだけで楽しそうに出かけていくマミは、およそ仕事のために出かけているようには見えない。
しかも、一度だけビー玉のペンダントをどこかに忘れてきた時があった。アクセサリーを外さなきゃ進められないミーティングなんて、どこにあるんだろう。
身体を売っているのか、私の知らないパートナーと会っているのかは分からない。でも、私に隠しごとをしているのは明らかだった。
「ねぇ、マミ。最近どこに行ってるのよ」
「あれ、言ってなかったっけ? ミーティングだよ」
もちろん、これは嘘だ。ミーティングはいつも画面越しだし、私も彼女もチーフエンジニアの顔さえ知らない。画面に映るのは、ぼんやりとした線の青髪ツインテールの女の子だけだ。髪がぴょこぴょこ揺れるのに合わせて聞こえる声だって、フォルマントをいじってフィルタされている。
私たちが最先端の設備や技術を導入しているわけではなく、これが東京でのオフィス労働の実態だ。マミは時折、こうやって調べなくても分かるようなわざとらしい嘘をつく。騙されてくれるよね、とでもいうように。
「……あ、そういえば、明日から一週間入院するから。配信は適当にやっておいてくれる?」
「何よ、入院って」
いつものことながら、マミの話はあまりに唐突だった。上着をハンガーに掛けながら、そうやって世間話のように平然と大事な話を切り出そうとするのだ。
「ちょっと手術しなきゃいけなくなって。死ぬわけじゃないから大丈夫だよ」
「違うわよ! そういう大事なこと、どうして早く言ってくれないの」
明日から手術だなんて、仕事仲間としても、パートナーとしても早く伝えなきゃいけないことのはずだ。手術だってミーティングだって、きっと嘘だから適当なことを言っているんだろうけど、本当だとしたらより悪い。どうしようもない怠慢だ。
立ち上がって大声を上げた私を、マミは意外そうな表情で見つめる。
「ミカって、普通の女の子みたいなことも言うんだね」
マミはそう言って、少しだけ笑ってみせた。
次の日、マミを尾行した先にあったのは、電気街の端にある古びた雑居ビルだった。若い女性がまともな用事で出入りするような場所には思えない。
しかし彼女は周りを気にする様子もなく、狭くて暗いエントランスからビルに入っていった。エレベーターに乗るのに合わせて私も廊下を進む。もう戻れないところまで来ているような、おぼつかない心地がした。
「マミ、なんでこんな場所に……」
階数のランプが三階に止まる。マミがエレベーターを降りたようだ。コンクリートむき出しの埃っぽい階段を一段飛ばしでゆっくり上がっていく。息を潜めて登りきった先に、自動ドアに貼られた「レンタルBOX・スフェール」という手書きの看板が目に入った。
『いらっしゃいませ! どうぞお入りください!』
びくりと震える身体に遅れて、ただの自動音声だと気付く。しかし、安堵した時にはもう遅く、「レンタルBOX」の意味も分からない間に自動ドアが開いていた。
そっと覗いてみるけれど、マミの姿はない。切れかけの蛍光灯がちかちかと光る薄暗い部屋は空調がよく効いているらしく、外に暖かい空気が漏れていくのが分かった。
彼女と鉢合わせたら「やっぱり入院なんて嘘だったのね」とでも言ってやろうと思いながら、そろり、とドアをくぐる。
目の前に広がっていたのは、整然と並べられた大量のメタルラックと、その空間を切り分けるように置かれた五十センチメートルほどのアクリルケースの一群だった。ケースには簡易的な鍵が付いていて、透明な壁の中でプラモデルやフィギュアが所狭しと身を寄せ合っている。
空いたケースには「出店者大募集」という広告と共に一ヶ月あたりの料金が書かれているところを見ると、「レンタルBOX」というのはアクリルで仕切られたブースをレンタルして商品を陳列するための場なのだろう。
正面の小さなレジはバックヤードの出入り口を兼ねているらしく、後ろに黒いカーテンが引かれていた。今はそこに古参そうな店員が退屈そうに座っていて、こちらを一瞥したきり何も言おうとしない。
とりあえず中を一周してみると、入り口近くのプラモデルやフィギュアはカモフラージュだったと分かる。奥には水着を着た派手な髪の色の女性が大股を開いた写真が印刷されたUVRケースのジャケットだとか、フリルのほつれた下着のセットだとか、そういう成人向けの商品が大量に置かれていた。現実の肉体を撮影したアダルトビデオは違法だったはずだから、雑居ビルで隠れて営業しなければならない「そういう」お店なのだろう。
少し気になったのは、そんなセクシーなブースの横に、ビー玉や大きな水晶玉をかなりの高値で売っているブースが並んでいたことだ。東京では、ガラス球の取引まで違法になったのだろうか。マミも私にビー玉を持ってくるように言っていたし、もしかしたら貴重な品物なのかもしれない。
もしかして、マミはここで私があげたビー玉でも売ろうとしてるんじゃ――
「お嬢さん、鉄道が好きなのかい?」
と、流石に私の行動を怪しんだ店員がレジから声をかける。鉄道グッズなんて奥にひっそり飾られているだけで、一度だけ目の前を通ったきり眺めてもいない。明らかに不審な私を牽制するための呼びかけだ。
「あ、いえ、別に」
「……都民カード、見せてくれる?」
あんまり妙な動きをするとただじゃ済まないぞ、というような口調に、身体が固まって動けなくなる。どうしよう、どうしよう……と思っていると、黒いカーテンが開いて、バックヤードから人影が現れた。万事休すか。
「すみません、――さん。その子、私のパートナーです。後をつけられちゃったみたいで」
と、奥から聞き覚えのある声と共にやってきたのは、ゆったりとした水色の検査着姿のマミだった。どうやら、助かったらしい。
彼女は手短に私との関係について話して、この店を脅かすような存在ではないことを告げた。大体は聞き覚えのある内容だったけど、
名前を呼ばれた店員は二、三小言を残して(何と言っていたかは聞こえなかった)バックヤードに戻っていく。それに合わせて、マミがこちらに駆け寄ってきた。
「ミカ、来てくれたんだ」
「あんた、こんなところで何してるのよ」
私が検査着の襟を掴んで詰め寄ろうとも、マミはまるで気にしないそぶり。逆に、私を落ち着かせるように手を握ると、じっと私の目を見つめた。
「それも含めて、奥で話さない?」
ちゃんと説明するから、という押しに負けて、私は手を引かれるまま奥へと進んだ。
黒いカーテンをくぐると、そこにはデスクやロッカーはなく、さっきまでと同じようにメタルラックとアクリルケースが並べられていた。しかし、中に置かれているのはもう少し趣味の悪い品物だ。
目の前のケースに入っているのは、人間の肘から先の模型に見える。外側には若い女性の顔写真が貼り付けられていて、まるでこの子から切り取った腕が飾られているみたいだ。
上も、下も、向こうのラックもみんな人体模型と顔写真を組み合わせた同じような趣味の悪い展示ばかりで、何だか気持ちが悪い。腕、脚はまだ直視できるものの、眼球、肝臓、心臓ともなると、まるで本物の臓器みたいでちらりと見るのさえ恐ろしい。
「ね、ねぇマミ……」
「事務所とオペ室はこの奥だよ。ガサ入れ対策で二重底になってるの」
そんなこと、どうでもよかった。今はただ、マミが私に隠していることが怖くて仕方なかった。人間をパーツに分けて切り売りするこの空間に、私はどんな意味を見い出せばいいのか。
でも、何から聞けばいいんだろう。私が押し黙っていると、マミはホワイトボードを持ち出して一つ一つ事情を説明し始めた。
人間が必須元素として球体――それもできるだけ真球に近い――を必要としているのが分かったのは、彼女が東京に来てからだった。
なぜなら、東京では当局による球体の収奪が続いていたから。ガラスやプラスチックの球体はもちろんのこと、ゼリーやチョコレートでさえも球体に近ければ禁止あるいは没収された。農・水・畜産物は当局の認可が下りたカット済み、あるいはキューブ型に育てられたものだけが出回っている。あの日、喫茶店で味の悪い合成肉が出てきたのも、その流通の煩雑さと厳しい基準のせいだったようだ。
そんな環境の中でマミも徐々に体調を崩し、最終的に
球体の収奪は、都市全体を巻き込んだ人体実験のためとも、世界大戦に備えて秘密裏に政府が地下倉庫で保管するためとも言われているけど、本当の理由は分かっていない。
症状を防ぐためにはやはり球体を身に着けるのが有効で、東京ではビー玉が保険外処方の一つとして認可されているらしい。しかし、これは根本的な解決策ではなく、結局は発作の恐怖と隣り合わせで生活し続けなければならないという。
一度
しかし、人工の臓器は身体に大きな負担がかかるため、高齢になればなるほど適応が難しくなる。そこに目を付けた業者が、比較的
彼女らも
となると、ここにある四肢や臓器は全て本物で、かつてこの顔写真の子に入っていたものだ。
「お、おぇえっ……」
そこまで理解すると、急に吐き気がこみ上げてきた。
「私もね、顔写真と並べるのは趣味が悪いからやめてって言ってるよ? でも、こっちのほうが売れるんだって」
「……お金儲けって、これのこと?」
やっとの思いで振り絞った言葉は、とてもありきたりで、つまらなくて、くだらない。
「うん。ここで少しずつ身体を
「だって、こんなの普通のお店じゃ売れないでしょ。とはいえ、スフェールもここまでが限界なんだけどね」
限界、と聞き返すと彼女はさらに説明を続けた。
「うん。私たちは、次の場所に向かわないといけないの。かたい素材でできた、完全な球体になって」
それから、マミは「次の場所」について語り始めた。
脳をスキャンしてケイ素の球体に埋め込むことで、人格や記憶を保存できる上に、ほとんどの災害に耐えうる物理的な強さを得ることができる。人間としての不自由な身体を捨てて、誰にも害されない完全な球体に生まれ変わることができるという。
もちろん、本来の脳とは思考スピードも異なるし、シナプスの応答曲線も微妙にずれているけど、数千年のスパンで見ると現状では最適な手段らしい。
最終的には汎用ロボットボディに載せて自律的に動けるようになるし、別の肉体に戻したりできるようにもなると言われているらしいけど、それがいつになるかは分からない。
とにかく、
「ミカには、完璧になった私を見てほしい。だからミカを東京に呼んだの」
初めて東京に来た日に喫茶店で言われた言葉と同時に、背筋が震えるあの感覚を思い出す。彼女のいう「完璧」は、あの日から――いや、もっと前から球体のことを言っていたのだろう。
でも、それはつまり、肉体を全て捨てるということで、彼女に宿っていたあらゆる記憶や思い出が捨てられてしまうかもしれないということだ。
「じゃあ、脳も売るっていうの?」
「当たり前じゃん。生ゴミにでもするの?」
「違うわよ。脳を取り出したらあなたがあなたじゃなくなるんじゃないの? それでいいの?」
脳の構造を残したって、彼女がいうように彼女の人格や記憶を保持できるとは思えなかった。人間はそんなに単純なものじゃない。
マミは確かにそうかもね、と笑った。
「じゃあ、私の脳を誰かの身体に移してみる? そうしたら、まだ私でいられるかな?」
「何よ、それ……」
「顔も違うし、声も変わって、味覚だってほとんどなくなるの……背中だって、感じなくなってたでしょ?」
笑えない冗談を楽しそうに告げるマミに、私はえも言われぬ不気味さを感じていた。時折顔を覗かせる彼女の人間味のなさは、決して都会に揉まれたせいではなく、文字通り人の道を外れつつあるからだったのだ。
「私はもうとっくに、あの時の私じゃないんだよ」
「マミ、やめてよ。そんなマミ見たくないわ」
困惑、不気味、恐怖……私がその場にうずくまっても、耳を塞いでも、マミが私に同情してくれることはない。
「もう遅いよ。私の身体も限界なの」
「……分かったわ。少しだけ、考えさせて」
今の私には、身体を丸めて震えながらそう告げることしかできなかった。
公園で
夕日の公園で、ベンチに二人座っている。まるで告白のようなシチュエーションだけど、気分は全く晴れやかではなかった。
「私、ミカに憧れてたんだよ。ずっと」
「あんたに恨まれてるとばかり思ってた。バカみたいね」
隣に座るマミが、やはり告白のような言葉を告げるけど、今はただ過去を振り返って懐かしんでいるだけだ。
「言ったでしょ。完璧になった私を見てほしいって」
「ねぇマミ。やっぱり――」
「ミカ。今さらどうしようもないって、もうミカも分かってるでしょ?」
マミが着ている白いワンピースは、検査着に着替えた後ですぐに捨てられるように、私が買って渡したものだ。もちろん、着てくれるのは嬉しいけど、それが別れを意味しているのは明らかだった。
それでも、わざわざ手術の当日に呼び出されたのだから、もしかしたら気が変わって……なんて思うのは、私が浅ましいからなのか。
「今日は、私のお葬式をしてほしいと思って呼んだの」
「お葬式? 家族には連絡しなくていいの?」
「だって、ミカは私の
確かにそうかもしれない。娘の身体がばらばらにされて趣味の悪い金持ちに売られているなんて、正直に伝えるほうが酷というものだ。私でさえも、まだ受け止めきれてはいないのだから。
「お葬式って、見送る人たちのためにあるんだって」
マミがぽつりとつぶやく。その言葉の意味が、今の私には痛いほどよく分かった。
「だから、ここでお別れの言葉を言って。そうしないと、私がちゃんと帰ってこれないよ」
お別れの言葉。さよなら、ありがとう、またね。
私にとって、マミは何だったのだろう。友達、恋人、あるいは
ではマミにとって、私は何だったのだろう。肉体を捨ててまで完璧になろうとする彼女は、こんな不完全な肉体を抱えた不安定な私にどうして執着しているんだろう。彼女に取り残されて些末で矮小な世界で生きていく私のことを、どう思っているだろう。荒い息で私を抱いて離さないマミは、肉体と共に消え去ってしまうんだろうか。
マミは私を遠くからずっと見つめているのに、私はマミの影さえも見つけられない。そんな想像が頭を支配して離れなかった。
「ねぇ、マミ……行かないでよ……」
ぼろぼろと涙を流す私を見て、マミは「ごめん。もう涙も出ないんだよね、私」と言って、ばつが悪そうに笑った。
「ねぇ、いつかまた人間の身体に帰ってくるのよね?」
「人間に戻せるかは、まだ分からないよ」
たとえ新しい肉体を作って脳だけを戻しても、それはもう違う人間なのだと、暗に言っている気がした。
でも、今日の葬儀だってただのお遊びで、ここで本当にお別れなんて思えなかった。だって、マミは生きていて、今だって確かに私の言葉を聞いているのだから。
「だって、完全な球体があればあんたの魂を取り出せるんでしょう? それを肉体に戻せば――」
「魂と肉体が分離できるなんて、古典的な発想だね」
私の言葉を遮って、ぴしゃりと言い放つ。不意打ちの反論に面食らっていると、マミはそのまま言葉を続けた。
「私たちの肉体はずっとここにあるし、私たちの魂はこの肉体のためにある。取り出せるものじゃないよ」
魂は肉体に張り付いているからもう取り出せない。そうなのかもしれない。でも、そう考えると、やっぱり人間のマミとはここでお別れなんじゃないか。
アバター、魂、器……マミが動画配信の後に同じようなことを話していたのをふと思い出す。
「じゃあ、やっぱりあんたは死ぬの?」
「そうかもね。人間としては、死んじゃうのかも」
マミはそう言いながら立ち上がって、その場でくるくると回ってみせる。それはまるで、天国から迎えが来たかのようだった。
「でも、私は確かに私だから。それだけは覚えておいて」
夕日を背にして、マミが私に笑いかける。それが彼女から聞いた最後の言葉になった。
ミカの家で
それから、まったく予定通り、一週間後の午前中にマミが石の塊になって帰ってきた。配達員のおじさんが「重いですよ」と手渡すしっかりとしたダンボール箱は、一見すると大玉のスイカでも入っていそうな立方体で、そこに十キログラムほどのずっしりとした重量感が収まっていた。
私は今、マミの人生を胸に抱えているのだ。全身の力が抜けそうな妙な達成感と同時に、物言わぬ岩塊になった彼女に対する後悔の念がじわりと広がった。
そっと床に箱を置く。厳重に貼り付けられた迷路みたいなガムテープを順番に剥がしていくと、丁寧に閉じられたフラップが現れた。
箱を開けると、まず目に入ったのはクリアファイルに入った死亡診断書だ。
かつての肉体はもうどこにもなくて、もうこの死亡を証明する紙切れだけが彼女の存在を証明している。死亡診断書には当たり障りのない死因と、適当な死亡時刻が記入されていた。
マミは発泡スチロールのブロックで上下から固定されており、取り出すと完全な球体のスタイリッシュなフォルムが私を迎えた。
黒くてつるつるした見た目の表面は全体が感覚器になっていて、肌全体で広い範囲の電波や振動を感じとることができるらしい。触ってみると、表面はかたくてひんやりとしている。試しにノックするように叩いてみると、中の微細な空洞を振動が駆け巡って水琴窟のような音が響いた。この刺激がマミにとって快いものなのかは分からないけど、たまに聴きたくなる音だ。
箱の底には袋に入った細かい砂が敷き詰められていて、持ち上げると袋の中でさらさらと流れていくのが分かった。マニュアルに書いてあったマミの寝床だろう。たとえ球体の表面が傷ついても、この砂の上に置いておけば治癒するらしい。
「あら、これって……」
と、砂袋のもう一段下に、簡素なビニールで包装された布が入っていた。
「――っ!」
それがマミが最期に着ていた服だと気付いた時には、マミの肌にぽつぽつと大粒の涙が降り注いでいた。
空っぽのワンピースは、彼女がもう人間の時間軸にいないことを物語っている。私と彼女の間には、もう埋めようもない隔絶が広がっていた。
それから数日後、私はマミの死亡届を出した。彼女とのパートナーシップを結んでいたおかげで、相続の手続きまで滞りなく進められた。
仕事を手伝うだけなのに、わざわざ届けを出す必要があるだろうかと思っていたけれど、最初からこのつもりだったと思えば合点がいく。役所での手続きなんてマミにとっては些末なことのはずだから、人間の姿を捨てられない私への気配りというところか。
私は心のどこかで、マミが私を呼び出したのは、私の過去を責めるための壮大な復讐なのだと思っていた。しかし、マミはもうずっと私よりも先に行っていて、その姿を私に見てほしいと言ってくれた。だから、人間の時間軸や些末な過去の恨みなんてもうどうでもいいのだ。
でも、残された私は? 私は人間の時間軸で、過去をくよくよ気にしながら生きていくしかないのだろうか。もし、そうだとしたら。
「マミって、すごく変だわ。昔も、今も」
彼女を少し転がしてから、砂を振りかけて何度か撫でてみる。すぐには応えてくれないけれど、確かにマミはこの大きな棺の中で生きていた。
マミは完全な球体だなんて言っていたけど、できあがったボディは少しいびつだった。ボウリングのボールとして使う分には困らないだろうけど、少なくとも私には、彼女の上下がよく分かった。
「ねぇ、マミ。私のお墓に、なってくれる?」
……なんて、まだ気が早いかもね。
私とマミの時間が、また少しずつ離れていく。壮大な時間を過ごすマミの横でこのまま老いていく私を、彼女はどう思うだろうか。
それを考えるのは、もう少し後でも良さそうだ。