お盆過ぎになっても、まだ暑さは落ち着かなかった。この異常気象で、アンドンクラゲもアカイエカもいつの間にか絶滅危機らしい。こんな夏休みにわざわざ外に出かけるなんて、無謀な挑戦を売りにする動画投稿者くらいしかいないだろう。しかし、今から私は無謀にもそんな挑戦を強いられることになる。部長がどうしても今日来てほしいと言ったからだ。
早起きの寝ぼけた頭の中を、トーストにかじりつく音と一緒にキャスターの声が通り抜けていく。最近の老人は周囲の環境変化に鈍感であるから、少なくとも10月までエアコンが必須である……というような特集を、できるだけ当事者のプライドを傷つけないように、回りくどくかつ明るい口調で説明していた。十数年前のコンプレッサーでは、暑すぎてタイマー機能の動作温度設計から外れるものがあるらしい。
その特集が終わると、今年は特に酷暑だった20年前の平均気温を大きく上回り、ここ150年ほどの観測史上で最も暑い夏になるだろうという気象庁の発表が流れ始めた。気温の警報だけでL字放送に変わるのも珍しい。ぐるりと残したパンの耳を牛乳で流し込んで、少子化と共に平均気温が上がる傾向があるようだ、ということを示すグラフがSNSでバズっていたのを思い出す。昨日サークルのトークルームでスズがシェアしていたが、部長の既読は付いていなかった。
今日も昨日とほぼ変わらない最高気温を示す予報にげんなりする。二十四節気なんて梅雨と一緒にもう忘れ去られて、季節が一歩も前に進んでいる気がしない。屋外での運動は原則中止せよ、不要不急の外出は避けろ、定期的に水分を補給しろ――と、お年寄り相手の猫撫で声から急に単調で冷静なアナウンスに切り替わった。部長が急いでるみたいなんですみません……と誰にともなく言い訳しながら、あせた薄手のロングスカートを収納から適当に取り出したチュニックに合わせて、かぎ編みの日除け帽をかぶる。バッグにはネッククーラー、日傘、それと凍ったペットボトルを何本か。これなら行きの燃料くらいにはなるだろう。
部長――アキさんは少し変な人だった。特に空間の捉え方において、古い感性の人間である。彼女はコミュニケーションにおいて物理的な距離を重視していて、
去年、会員の多数希望で初めて仮想空間での例会が開かれた後、急にアキさんからご飯に誘われた。通話の呼び出しが数コールですぐ切れて、その後DMが届いたのだ。操作を間違えるほど急いでいたらしい。明日とか週末の約束のつもりで話を聞いていたところ、今すぐ行きたいのと言われて戸惑ったのを覚えている。今とは真逆で、空がとても冷える冬の日だったはずだ。私は1年生の秋学期終わりがけで、アキさんは部長になったばかりだった。
駅前に着くと既にアキさんが待っていて、こちらに気づかずなぜか焦慮した様子を滲ませていた。私が声をかけると、そのいらだちをかき消すように「あ、ナルちゃん!」と笑顔で私の手を握る。大きな青いガラスボタンの付いたベージュのステンカラーコートを着ていた。例会の時はだいたいこの姿で、ボタンの薄いメッキが透き通った輝きを放つのが好きだった。指先は冬らしくひんやりしていて、しかし行きつけのラーメン屋に着く頃にはもう暖かくなっていたと思う。
実は、アキさんと手を繋いで歩いたのはこの日が初めてで、本当は少し驚いていた。もちろん、仲のいい友達同士ならありふれたことだろうけど、私は単なる先輩と後輩の距離感のつもりだったから。そこへいくと、そもそも私とアキさんは突然二人で食事に行く間柄ではないのだった。立て続けに不測の事態が起こると、人は急に冷静になるものだと思う。
その頃はまだソーシャル・ディスタンシングがどうのと世間がうるさくて、どちらともなく手を離してもいいような力で引き合って歩く私たちの姿を意識すると、どうも後ろめたい気持ちになったのを覚えている。アキさんは私より少し背が高かったけど、姉妹だと言い張るには無理があった。まだ食事以外で素顔を見る機会は少ない時期である。
歩いている間、アキさんは数十分前の例会に出席していたタヌキネコ(3年くらい前にバズったキャラクターで、キャンペーンの3Dモデルが配られていたのだ)のアバターがちゃんと私だったかどうかを頻りに気にしていた。手のひらの暖かさを通して、目の前の存在を確かめているようだった。アキさんはデフォルトの角張ったロボットのアバターだったから、動物と心を通わせるやさしいロボットの姿が頭に浮かぶ。
「ご飯に行くなら、みんなも誘えばよかったじゃないですか」
「そ、そうだよね。でも、ちょっと恥ずかしくて……」
「え、何がですか?」
「ほら、ナルちゃんは東北出身じゃない? 仮想空間に馴染めない気持ち、分かってくれるかなって……」
アキさんまで! 私はちゃんと政令指定都市育ちなのに。埼玉生まれのスズに言われるのはまだしも、長野の山奥から来たアキさんに言われると流石に反論したくなる。しかし、ばつが悪そうに私を呼びだした理由を告げる姿を見ると、言い返す気にはならなかった。
それからアキさんは、仮想空間にいると表情の分からないピエロに囲まれているみたいで怖いとか、電話もちゃんと伝わっているか分からなくて苦手、というような話をしていた。日本人の4割は電話が苦手だというし、最近発表されたコロナの感染率が3割弱だと考えると、それほど珍しいことでもない。私にベタベタと触れてきたのも特別な気持ちがあるわけではなく、ピエロが集まる薄ら寒い夜を人肌で乗り越えようということなのだろう。
限定のイタリアンまぜそばが美味しかったから、別にいいけど。
ほんの数分前に着いたばかりだという白いワンピース姿のアキさんは「暑いねー」なんて間延びした声と共にハンカチで汗を拭った。駅前のロータリーは歩道に沿ってUVカットの強化プラスチックでシェルターが張られており、圧迫感を抑えつつ待ち時間を快適にする工夫が施されている。その屋根の下でも熱気はなお変わらず押し寄せているようで、麦わら帽を脱いだアキさんの頬は上気していた。
「アキさん。先に来たなら、サローにでも入っていればよかったじゃないですか」
サローは駅前にある唯一のカフェである。県内全域と県外にもわずかに進出しているアメリカンダイナー風のチェーン店で、手軽な価格で食べられるオリジナルスパイスを使ったハンバーガーの人気が高い。あとはクラフトコーラのカクテル。この小さな駅にサローがあるのは少し珍しい気がするけど、バイトも利用者も近隣の大学生が多いおかげで上手く回っているのだろう。
「う、うん。でも、すぐ電車に乗るからいいかなって……」
「え、出かけるんですか。今から? どこに?」
アキさんが脱いだ帽子をもじもじと揺らす。つばがまっすぐ伸びた大きな麦わら帽にはピンク色のリボンが巻かれていて、その結び目に通したガラスボタンがきらきらとした光を放っていた。この輝き、どこかで見覚えがあるなと思いながらしばし見つめているうちに、アキさんが冬の例会で着ていたコートのボタンと同じものだと気づく。角の生えた鹿のような動物が描かれていて、花札の「鹿に紅葉」を連想した。紅葉は待ち遠しいほどずっと先なのに。
「ちょっと……海に行きたくて」
「はぁ、海ですか」
思わず気の抜けた声が出るくらい、なんとも突拍子もない答えだった。ここからだと、針磨まで行ってからJRで向かうつもりだろうか。ここは県内を縦断する私鉄の一線であり、乗り換えなしでは海岸には行けない。往復で3000円くらいなら、サローで少し豪華な夕食を食べたくらいだと思えばいいだろうか。
それよりも、海と聞いてせめてサンダルで来なかったことを後悔していた。海に向かうつもりのアキさんが、今すぐにでも砂浜を歩けるような服装なのは当然で、しかし相対する私は海どころか遠出するにも気合の入らない服装だ。ワンピースによく映えるナチュラルな青いコットンリュックに、私にも使えるようなアイテムが入っていたらと思うが、あまり期待はできまい。
もちろん、どこに行くか聞かずに外に出た私も悪いけど――と、いつの間にか自分がもう海に行く旅程は受け入れてしまっていることに気付いて、さらに驚く。そもそも、夏休みもど真ん中のこんな日に誘われた時点で怪しむべきだったと、思った。
「わたし、実は明後日帰省するんだけどね。お塩を持って帰らないといけなくて」
「塩ですか。センゴクに行けば、徒歩5分で着いて涼める上にヒマラヤの岩塩まで売ってますけど」
「えっとね、あれは不純物がいっぱいでしょう? でも、化学の塩もダメで……お店で買うんじゃなくて、海水をもらってきて作らなきゃいけないの」
お盆にDIYの塩を納める文化なんて、聞いたことがなかった。江戸時代には沿岸から長野県の塩尻まで塩を運ぶ街道があったらしいけど、現代では内陸県だからといって塩が不足することもない。仮に不足していたとして、素人が作った塩を必要としているのはやはり奇妙だった。
「ねぇナルちゃん、ダメ? 今年はすごく暑くて、わたしだけじゃやりきれるか分からないの」
「えーと……いや、はい……」
沈黙が流れる。アキさんは私の答えをはっきり聞くまで動きません、とでも言うように麦わら帽のつばをきゅっと握っていた。乗客を数人乗せて発車を待っていた市内の循環バスが出発時刻を迎えて、ディーゼルエンジンの始動音と共に姿を消す。街路樹に集まるセミも暑さが過ぎるのを静かに待つのが精一杯で、耐えきれずに噴き出した汗が右頬をつつと流れるのを意識した。
「……私、行きの燃料しかないんですよ」
「燃料って?」
「いや、なんでもないです」
駅前にいる今なら、アキさんの誘いを断って帰ることも簡単にできただろう。しかし、彼女がおかしな風習のせいで行き倒れてしまったら寝覚めが悪くなるのは私の方だ。この暑さの中でカンカン照りの十州海岸に向かうだけでも正気じゃないのに、さらにそこから重い重い海水を持ち帰ってくるなんて、とんでもない愚行に違いない。アキさんが無理をして倒れる前に止められるのは私だけだ。
それに、こうしてアキさんに申し訳なさそうな顔で頼まれるのにはどうも弱かった。初めてアキさんの部屋に行ったときといい、私って流されやすい性格なんだろうか。
でも、今日はもともと予定がなかったし、もしかしたら秋の民俗学Ⅱのレポートでネタにできるかもしれないし、もともとアキさんと過ごすのがいやなわけでもないし……とにかく、まぁ、私にもきっとメリットがあるはずだから、別にいいけど。別にいい。
「ちょっと散らかってるけど、好きなところに座っていいからね」
コートを脱いだアキさんが、ごちゃついたダイニングテーブルを片付け始めた。ボトルデザインにクリスマスのオーナメントが散りばめられた化粧水(保湿がよいと口コミで評判だった)、砂糖か塩のような白い粉末が詰められたジャムの空きビン、クーポンがついた駅前の新しいピザ屋のチラシ、4言語の赤い文字で警告が書かれた水道局の封筒……片付けというより、単に重ねて端に寄せただけともいえる。
半分ほど空間ができたテーブルにコップを持ったアキさんが座ったので、それに合わせて向かい側の席に着いた。透明な液体で満たされたコップ越しに、紺色のリブニットセーター姿のアキさんを見つめていると「お茶の方がよかった?」と尋ねられたので首を振る。聞くと、地元の温泉から採水したものがペットボトル詰めで売られているらしい。確かに、少し甘さを感じないこともない。
「あの、部長。それで、相談っていうのはなんなんでしょうか」
まぜそばを食べ終わった私は、またなぜかアキさんに手を引かれて駅まで戻ることに。アキさんの手は食事の前より暖かくて、お互いに触れ合う手のひらがよく馴染む気がした。「冬なのにあったかいね」なんて笑っていたところを見ると、私の手もだいぶ暖まっていたのだろう。駅に着いたところで解散と思っていたら、実は話したいことがあるのだと家まで誘われたのだった。
「そうだったよね。相談。そう、えぇと……」と、アキさんは私の問いに答えかねているようで、手元がもじもじと落ち着かない。水面を揺らしたり、少しずつ口に運んでみたり――と、しばらく心の準備を待っていると、とうとう重い口を開いた。
「ナルちゃんって、海の匂いがするよね」
「……それって、縁起悪くないですか? なんか、死ぬ前みたいで」
「そ、そうじゃなくて! 海っていうのは、晴れた砂浜のぽかぽかした感じとか、空の匂いっていうか……」
「夏の……いや、おひさまの匂いとか、ですか?」
アキさんは私の「おひさま」という言葉にうんうんと頷いて「そう! そう言いたかったの」と身を乗り出して答えた。じゃあそれはきっと柔軟剤の香りだ、と思って自分の袖に顔を近づけてみても、もう鼻が慣れているのか、冬の空気がまとわりつく冷たい匂いしか感じない。むしろ、近づいてきたアキさんのジャスミンローズの香りを強く感じていた。
私はてっきり、人が死ぬ直前に磯の匂い――実はプランクトンや海藻が分解された物質らしい――が漂うという都市伝説のことだと思っていたけど、もっと明るくてあたたかい話だったらしい。滞留したナトリウムの香りみたいだなんて評されるのはまっぴらごめんだけど、おひさまの匂いというのも、なんだか子供っぽさが先に浮かんで褒められている感じはしなかった。
「わたし、海にほとんど行ったことがなくて。だから、わたしの 海の匂い は、小さい頃の思い出の匂いなのかも」
アキさんの言葉を聞いて、昔家族で行った市内の海水浴場のことを思い出す。砂浜は海の家とビーチパラソルと残りは人出で埋め尽くされているという、よくある夏の景色だ。端の方に行くとごつごつとした岩場が広がっていて、潮だまりでイソギンチャクや巻貝が揺れていたり、小さなカニが駆け回っていたのを覚えている。
頭に浮かぶのはそういう磯の生き物たちの楽園で、しかし匂いを思い出そうとするとどうも判然としない。スーパーの魚売場とか、忘年会の居酒屋で見た生け簀の記憶と混ざってしまう。最近海に行っていないからだろうか。冬は海の匂いを忘れてしまうのかもしれない、とふと思った。
「でね、いつもナルちゃんから海の匂いがするなって思ってて」
「私だけですか? その、ヘンな匂いって……」
「ヘンじゃないよ! みんないろんな匂いがするし。でも、ナルちゃんが一番好きだから、ね?」
身振り手振りで誤解を解こうとしているようだけど、勘違いしているのはアキさんの方だ。とはいえ、私が知っている 海の匂い ではないことは分かったし、あまり気にする必要はないのかもしれない。いい匂いだと感じる相手は遺伝子の相性もよい、なんて再現性のない昔の論文に依拠した俗信が頭に浮かんで、アキさんの匂いをあまり覚えていないのが薄情なことのように思えた。
「今日はバーチャル例会だったじゃない? いろんなアバターからみんなの声が聞こえるのが怖くて、ナルちゃんの顔を思い出したら、なんだかすぐに会いたくなったの」
アキさんは声と身体が同じ場所に重なっていないことよりも、普段感じている嗅覚がシャットアウトされることに不安を覚えたのだろう。表情も匂いも分からない、声が出る3Dモデル。これは電話だってそうだ。簡単に言えば、匂いを感じたいから直接会いたい、ということらしい。
そこで最初に浮かんだのが私というのがどうも腑に落ちないところだけど、同じ 地方出身者 として話しやすかったのかもしれないし、不安になったら誰かに頼りたくなる気持ち自体は理解できる。でも、それなら初めから一緒にいてほしいと言ってくれたらよかったのに。断られないようにまずは食事から、なんてむしろ私を信頼していないように感じられた。まるで私の意思なんて無視しているように。
「じゃあ今日は、最初からこうやって家に連れてくるつもりでご飯に誘ったんですか?」
「……えっ」
少し冗談めいた口調で聞いたつもりが、予定より深刻そうな声色になってしまったのが分かる。アキさんが頬を引きつらせたまま動けなくなったからだ。いやな空気が駆け抜けた。大丈夫です、冗談ですよ、気にしてません……そう言い出せれば、と思ったけれど、もやもやした気持ちがのどにつかえる。
そうしているうちに、重い空気に耐えきれなくなったアキさんが口を開いた。
「騙されたと思ってたら、ごめんね。でも、そんなつもりじゃなくて……ひっ、こわかったのも、ほんとだから……」
「じょ、冗談ですよ! 泣かないでくださいって」
膝の上で両拳を握りしめたアキさんから、たどたどしい口調と一緒に涙が漏れ始める。テーブルに突っ伏すわけでもなくぴんとした姿勢で私の目を見つめようとしているけれど、ぼろぼろと流れる涙で視界はすっかり歪んでいるはずだ。そうやって弁解する姿を見ると、確かに私を騙すつもりなんてなかったのだと思えてくる。
「それで、まだちょっとこわくて……うっ、だから、一緒に寝てほしくて呼んだの……だめ?」
「いや、先に言ってくれれば、パジャマくらい……」
そこまで言葉が出てから、はっと気付いて口を押さえる。パジャマくらい。だなんて、まるでもう泊まることは決まっているみたいだ。アキさんのパジャマを借りたら少しぶかぶかだろうな、なんて考えてしまうのもいやになる。さっき自然に手を繋いで街を歩いたみたいに、またアキさんのペースに流されている。まんまと無警戒でこの部屋まで来てしまったせいで、いつの間にか前にも後ろにも逃げられなくなっていた。
「……私と一緒に寝たら、バーチャル例会でちゃんとみんなとおしゃべりできるようになりますか?」
「うん、大丈夫。でも、逃げたくなったら……ひっ、ナルちゃんのこと、考えてもいい……?」
「あの、なんかそれって……まぁ、それで落ち着くなら、いいですけど」
アキさんって、こんな人だったっけ。おっとりしてるけど芯があって、もっとしっかりした人だったような。情緒の乱高下に任せて他人との距離感を見誤ったり、サークルで節操のない恋愛事情に巻き込まれたりする人ではなかったはずだ。それが今、目の前で不安を慰めてもらうために涙を流して後輩の私に懇願しているなんて。
実はこうして、私みたいに純朴な後輩を何人も誘っているんじゃないか、なんて変な妄想が頭の隅に浮かぶ。みんなに一番だよ、と言って回ったりして。それでも、今日だけ一緒の布団で一緒に寝るくらいなら、別にいいけど。別にいい。
「……こうですか」
「うん。ナルちゃん、ありがとう」
腕を広げたアキさんの胸元に収まるように身体を縮めると、暖かくてやわらかい感覚に包み込まれるのに合わせて、耳元にほぅと溜息がかかる。落ち着きを取り戻したアキさんとは対照的に、私はなぜか息ができなくなった。腕の力は弱いのに、強く締め付けられている心地がした。
私を抱き留めて泣き止んだアキさんが「ナルちゃん、ちっちゃくてかわいいね」なんてへらへら笑いだす。それを見てなんだか急にむしゃくしゃして、胸に向かって小さく頭突きをした。その拍子に大きく息を吸うと、香水と混ざった甘くて濃い匂いが通り抜けていく。アキさんの匂いを意識したのは、これが初めてだった。
「ナルちゃん、大丈夫? お水のボトルは適当に置いていいからね」
「はぁ……これくらい、ふぅ……平気ですから」
靴を脱いでダイニングテーブルに向かったアキさんが、大きなトートバッグから軽々と2リットルのボトルを取り出していく。私もその列に自分の荷物を並べようと思ったけど、靴を脱いで床に上がる自分を想像するとへたり込みそうになったので、その場にどすんとバッグを下ろした。アキさんの半分の量しか運んでいないのに。暑さにかまけて、運動もせずにだらけた生活を送っていたのを後悔した。
あれから十州海岸に向かった私たちは、海水どころか真っ白な砂浜ごと溶かしてしまいそうな熱波と日光の中で作業を始めた。もしビーチパラソルのレンタルシーズンが終わっていたら、今ごろ二人そろって砂浜の染みになっていたところだろう。8月終わりのこの酷暑に海水浴を楽しみに集まる人は少ないようで、せいぜいよく日焼けした地元のサーファーが数人集まって熱心に波を待つほかに人影はなかった。アキさんは久しぶりに見る海岸の景色を鼻から思い切り吸い込んで、「ナルちゃんの方がいい匂いだよ」とか「わたしの記憶と全然違う」と楽しそうに笑っていた。
それからアキさんがリュックから取り出したのは、海水を汲むための紐のついたピンク色のバケツが1つと、折りたたみのウォーターボトルが何枚か、そして500mlの炭酸飲料用ペットボトルに似た黒い容器からチューブが生えた謎の装置である。これが3本。1本持ってみるとずっしりと重く、全面に塗られたつやのない黒い顔料が日光を曖昧に反射している。指で軽く叩いてみたらカンカンと金属が響く音がした。
「これね、太陽の熱で海水を煮詰める……えーと、ケトルみたいなもの、かな。わたしも実家から持ってきただけだから、よく分からないんだけどね」
海水の入ったバケツを持って帰ってきたアキさんが、そう説明しながら金属ボトルに塩水を移した。そして、リュックの一番底に落ちていた空気入れのようなハンドルを取り付けて何度か勢いよく往復させる。空気を入れてるんじゃなくて抜いてるんだよ、と言っていた。どうやら簡易的な真空装置らしい。この前、そんな感じのキッチン用品がバズっていたっけ。
空気を抜いた後のボトルは、太陽がよく当たるように即席の砂山に仲良く立てかけられて、しばし日光浴へと出される。30分間ほど直射日光に晒しておくと、ボトルを満たしていた海水が3分の1ほどに減っていた。太陽の熱だけで水が沸騰して蒸発したということか。広げたウォーターボトルに濃縮された海水を流し込むと、まるで海藻でも煮詰めたような磯の匂いが上がってきた。死の匂いだ。
こうやって――いや、どうやって?――作った濃い海水のことをカンスイと呼ぶのだとアキさんが言った(後で調べたら鹹水と書くらしい)。
海水を煮詰めるのは正体不明のテクノロジー頼みでも、できあがったカンスイを家まで持ち帰るのは安価な人力である。とりわけ、私のような若くて健康な肉体ならどこでも即戦力というわけで……と思ったのも束の間、ビーチパラソルでは防げない白い砂浜の照り返しに私はすっかり体力を奪われていた。アキさんの体調を見守るどころか、重い身体を引きずりながらここまで2リットルのボトルを両肩に抱えて持ち帰るのがやっとというわけだ。
もちろんこれだけでは塩ができたとは言えないので、ここからは残りの水分を飛ばす作業が待っている。いかに豪快な暑気を放つ太陽でも力不足で、今度はさらに強い火力で塩水を沸かし続ける必要があることは知っていた。ガスコンロか、電子レンジか、固形アルコールか――外の階段に「駐車場でのバーベキュー禁止」の張り紙があったから、たき火は使えないのだ――いずれにせよ、まだ時間がかかりそうだ。
「じゃあ、お塩作りの続き、始めるね」
そう言ってアキさんが取り出したのは、海水を沸かしていたボトルと形がよく似た、しかし深い海のような青色のガラスでできた透明なビンである。なだらかなワインボトルや背の高い琉球壺を思わせるシルエットを描く分厚いコバルトガラスは、表面にぐるりと青海波のレリーフが彫られていた。
アキさんが慎重な手つきでそろそろとそのビンに塩水を注いでいく。五徳にかけるには背が高すぎやしないかという心配とは裏腹に、移し終わってもコンロに向かう気配はなかった。代わりに取り出したのは茶色くすすけた古いマッチ箱である。赤く塗られた上面に白虎が踊る見たことのないデザインだった。アキさんはそこからマッチを1本取り出してサッと火を着けたかと思うと、すぐにビンの口に差し込んだ。
すると、目の前に不思議な光景が現れる。マッチの火はすぐに消えるかと思いきや、水面近くでふつふつと橙色……いや、緑色にも見える炎を上げ始めたのだ。私の目を盗んでオイルでも垂らしたのかと疑ったが、私の怪訝な顔に向き合うアキさんの穏やかな表情は、私をからかっているようには見えない。炎に照らされた水面が少しずつ低くなっていき、わずかなオイルならもう燃え尽きているはずの時間が流れる。手品や錯覚の類ではなかった。
「あのケトルだけでもお塩は作れるんだけど、不純物が残っちゃうから」
「不純物が残ると、いけないんですか?」
「ビンの中で燃えちゃうようなお塩だと、塩の神様が悲しんじゃうから。だから、夜に煮詰めないといけないの」
どうやら、この不思議な炎で作られた塩は神社かどこかに奉納するためのものらしい。土着神の
アキさんの手で残りのビンも塩水で満たされて、今度は私が順番にマッチの火を落としていく。もちろんタネや仕掛けなんかなくて、水面に移った炎はどこから見ても明るい。細いビンの口から湿った空気がゆらゆらと漏れ出て、エアコンのないダイニングキッチンがさらに蒸し暑い夜に追いやられていった。
5本のビンがくつくつと立てる小さな音の中で20分間ほどが過ぎる。初めのビンの塩水がとうとう1割ほどまで減ったところで、今まで絶えずに様々な色で燃えていた炎がふっと消えてしまった。やっと塩ができあがったのかと上から覗き込むと、不思議なことにまだところどころ黄色い炎がゆらめいている。でも、もう一度横から見ても、やはり燃えているようには見えなかった。
「あ、あれ……?」
「どうしたの?」と驚く私に顔を寄せたアキさんがビンの中をぐるりと見回して、これなら大丈夫だよと言って炎を吹き消した。ビンの外側はほんのり温まっていて、しかし持てないというほど熱いわけでもない。ビンを皿に向かってゆっくり傾けると、勢いよく滑り出した結晶がきらきらとした光を放ちながら白い磁器の上を跳ねていく。でこぼことあちこちにぶつかる不規則な粒は、作り方から見ても焼塩に近いのだろう。不純物のない塩、という表現が確かに正しいと思った。
少し舐めてみようよ、と誘われるままに数粒を指に乗せて口に入れてみる。指をくわえた瞬間に同じポーズのアキさんと目が合って、見てはいけないところを見てしまったような心地がした。口の中にはふわりとしたしょっぱさが全体に広がっていくけれど、 化学の 塩とは違って、十州海岸で海水を煮詰めたときの磯の香りがまだほんのりと残っている。でも、ヒマラヤの岩塩から万年雪の香りはしなかったのに。
「おいしい?」
「しょっぱいです。あと、 海の匂い がします」
「じゃあ、よかった!」
大きな仕事を成功させたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべるアキさん。たかが塩でしょうと水を差す自分を意識しつつも、これが二人で朝から散々苦労して作った味だと思うと、つい口元が緩んでしまう。ほころんだ唇をきゅっと結んで頷くと、アキさんは不思議そうに首を傾げた。
ふと、山の神様は磯の香りが恋しいから塩を作らせるのかもしれない、と思った。山からは決して穫れない魚や貝の面影を味わうために、海から塩を持ってこさせるのだ、と。アキさんの故郷の図書館なんて漁ったら、もっといろいろ資料が出てくるに違いない。……いや、民俗学のレポートのためにストーリーを仕立てているわけではない、決して。
そうしているうちに、残りのビンの炎も徐々に弱くなっていく。不純物を飛ばし切ったら、また順番に取り出して次のカンスイを詰めなければならない。もうすぐ日付が変わる頃なのに、まだ全体の2割ほどしか終わっていなかった。今日はこれができあがったら、いったん帰ってもいいだろうか。明日の夕方から残りの分を進めれば、なんとかぎりぎり――
「ねぇ、ナルちゃん。お塩作り、朝までいてもらってもいいかな?」
「部長……私、今日はもう疲れちゃったんですけど」
「そ、そんな言い方しないでよぉ……一緒にがんばろう? ね?」
――というわけにもいかないらしい。昼間ほどの力仕事は残っていないにせよ、この疲れ切った体で細かな作業を繰り返すのを想像すると気が重くなる。流石に帰りたいという気持ちが前に出たせいか、思わず 部長 だなんて呼んでしまったから、アキさんは寂しそうな顔をした。
「ね?」と私に目線を合わせて屈んだアキさんの手は少し汗ばんでいて、キッチンがまるで海辺の熱帯雨林みたいに湿った空気に沈んでいたのを思い出す。窓はまだ開けていなかった。
「だって、ほんとに疲れたんですよ。ずっと暑かったから汗くさいし。流石に恥ずかしいですって」
「え……ち、違うよ? 今日はそんなつもりで誘ったんじゃないの。そんなことしない、しないよ、しないから!」
私の言葉にはっと驚いたアキさんが、みるみる赤い顔に変わっていく。まるで私の方が期待しているような言い方に思わず反論したくなったけど、私とエッチなことしたかったんでしょ、なんてアキさんが認めるまで言い続けるつもりもない。どうせ初めからそのつもりだったくせに、という言葉を飲み込んでため息をついた。
「いや、慌てすぎ……分かりましたよ。もう少しだけ、手伝いますから」
「うん。じゃあ、お塩作りが終わったらすぐ解散ね、解散!」
そう歯切れよく言い切ってみせたアキさんは、それでも諦めきれないように「でも、あんまり遅い時間だと危ないし、そのときは泊まった方がいいかもしれないけど……」なんてぶつぶつと言い始める。本当に私の言葉で意識させたのだとしたらとんだ藪蛇で、しかし私がアキさんの部屋に来て そう ならないことはなかったし、急に図星を指されて驚いただけなのだろう。やっぱり私はアキさんに甘いのかな、と思う。
落ち着きのないアキさんの代わりに、空になったビンに新しい塩水を詰めていく。まだ半分以上満たされたウォーターボトルは、片手で支えるには少し重い。細い水流を見つめながらほんの少しぼんやりとした隙に注ぎ口が揺れて、気付くとカンスイの飛沫が指先にかかっていた。素直に拭き取ればよかったのだけど、タオルに手を伸ばすのも億劫になってそろりと舐めとってみる。
海の香りがする。ふと目の前に浮かんだのは、コバルトブルーの海風が吹く山奥の神社の風景だった。