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もみじがり 2

/* この作品は、2022年5月発行の光速感情デラックスに収録されています。 */


前半から続く)

マヤ「除光液とオキシドール、それと……

「ねぇ、マーヤ。商店街にもみじって売ってるかなぁ?」

その夜、家に帰ってきたアリスは開口一番困り顔でこんなことを言い出した。最近の定番になっていた真っ白なフリルブラウスには、日替わりで花を模したレジンのブローチが飾られている。今日は透明感のあるオレンジのガーベラだ。

「もみじ饅頭? 厳島のパクリならあると思うけど」

「違うよぉ。もみじの葉っぱのこと」

もみじ。ムクロジ科カエデ属の落葉樹の総称、あるいは全体が赤や黄に染まった葉自体を指してそう呼ばれる。もみじ……もみじか。なるほど。さっとメモアプリを立ち上げて「しおり」の下に「もみじ」と書き込んで、一応イロハモミジの記事へのリンクを貼っておく。

中稲でもみじと言ったら、たぶん中稲図書館がある「もみじ山」だろう。秋になるとまるで山火事みたいに真っ赤に色づく木々は、公式のVRサイトでも通年で紅葉ゾーンが設置されているほどには重要な観光資源であることが窺える。

アリスが言うには、昨日なぜか二枚目の着任しおりを渡された勢いで、また館長にしおりを発行できないか聞いてみたところ「一人に何枚も渡すことはできないよ」と言われたらしい。もともと、しおりを何度も入手できるという話を聞いたことはなかったし、この返答に違和感はない。

しかし、それならなぜ二枚目を渡したのかが分からなくなる。アリスもその矛盾が気になったらしく、さらに館長と話してみたところ、不思議なことに昨日の会話を覚えていなかったという。昨日はアリスのことを忘れていたのに、今日はアリスを忘れていたことを忘れている……なんて、ちょっとややこしい。

館長は着任しおりを二枚も持っているアリスを見て、初めは彼女が不正を働いていたのではないかと訝しんでいたものの、ログを確認して結局は自分で渡したのを認めたらしい。

「着任しおりは一枚返したよ。浦部さん、すごく困ってそうだったもん」

「で、それが商店街のもみじと関係あるの?」

「あ、そうそう。だからねぇ、もみじがりに行った証拠を見せたら新しいしおりをくれるって」

……しおりの配布って、そういう運用だっけ?」

前にアリスから聞いた話では、しおりがもらえるのは辞令と着任のタイミング、毎月の新書籍振興賞1、あとは年間の表彰など。一種の勲章のような扱いだと聞いていた。広報用のしおりはあるけど、これはまた別の扱いになる。石上図書館でのアリスは、それはそれは真面目な勤務態度で評判だったらしい。もちろん目的はしおりだけど。

「お詫びに、だって。でも、なんか変だよねぇ。そもそも今月はエメラルドのはずなのに。地産地消ってやつかなぁ」

「えーと、館長さんは『もみじがり』って言ったの? 『紅葉狩り』じゃなくて?」

「違いが分かんないよぉ……でも、たぶん『もみじがり』だった気がするなぁ」

アリスが「ほら」と物理端末を差し出して私に画面を見せる。おそらくどこかのOEMっぽいメッセンジャー「メープル・コネクト」には、いかにも上司と部下という感じの館長とアリスの会話が表示されていた。

しおりが欲しいなら分けてあげてもいいよ。私のお願いを聞いてくれたら、だけどね

私は外に出られないから、代わりにもみじがりに行ってきてほしいんだ

あの薄くて真っ赤な自然の芸術を、もっと近くで見てみたくて

ここまで、メッセージの区切りも含めて原文通り。なんだかキザっぽい……というのはオブラートに包んだ表現で、そこはかとないおじさんっぽさを感じる。一歩間違えば、しおりと引き換えに自撮りでも要求されそうな雰囲気だ。あんまりまじまじ見るとまた怪しまれてしまうから、ぱちりと二度まばたきをして「へぇ」と言って画面から目を離す。

今は五月。紅葉とはまるで正反対の芽吹きの時期だ。館長もそれを承知で言っているのだろう。春のもみじを出してみよ……例えるなら、一休さんに課せられたとんちのようだ。とはいえ、この時期に色づく品種のもみじは割と知られているし、食用のドライもみじなら通販でも数日で届くだろうから、難題というほどでもない。

秋になれば、あるいは秋でなくてもすぐに入手できるような品物をわざわざ持ち込ませるなんて、しかもそれを貴重なしおりと交換するなんて、何の目的があるんだろうか。

「あのさ、アリスの上司を悪く言いたいわけじゃないんだけど……その、館長さんって信用できるの?」

「どうして? すごくいい人そうだったよ。しおりもくれるみたいだし」

いや、しおりだけじゃん。咄嗟にそう突っ込みたくなるのを抑えて、もう少し探りを入れることにした。

館長についての疑念は、他にもいくつかあった。図書館ネットの創設者である浦部槭樹氏には一人娘がいたが、若くして急死。彼の血はそこで途絶えたはずだが、現館長――アリスが浦部さんと呼ぶ――は浦部氏の子孫を名乗っているらしい。そして、浦部氏の後継として数十年前に館長に就任してからその席を守り続けているというのだ。

3Dホログラム越しにしか姿を現さない不老不死の館長といえばつまらない作り話だけど、実際にアリスが話したというなら急に信憑性が増す。そして、そんな奇妙な存在が持ちかけられた一見おかしな取引は、中稲図書館が抱えた何らかの事情を明らかにする可能性があった。

「でもでも、しおりってすごく貴重なの。五年も働いて、やっと十枚もらえるかどうかなんだから」

「そんな貴重なしおりをもみじ一枚で交換できるって、怪しいと思わない?」

「それは、そうだけどぉ……

館長にもみじを渡すだけで、本当にまたあのオパールのしおりがもらえるのだろうか。どう考えても、やっぱりおかしな話だ。

角度によって模様が変わるあの多層的な輝きは、他のしおりにない独特のものだった。これまで、多くのしおりは宝石仕立てと言いつつも、実態はその質感を精巧に再現したアクリルかポリエステル樹脂のシートだった。当然、発色や輝きに限界がある。でも、あのしおりの輝きは明らかにもっと細かい加工が施されたものだ。オパールによく似た、しかし人工的な規則性を持つパターンは、まさにホログラムディスプレイのウォームアップを思わせる。

しかし、どうやらあれは本物のオパール製ではないらしい。アリスは「地産地消」と言っていたけど、いくら調べても中稲がオパールの名産地だなんて話はどこにもなかったからだ。中稲の周辺に現役の鉱山はないし、過去にもわずかに銅鉱石が採れた記録しかない。アリスがなぜこんな勘違いをしているのか掘り下げると、ここにも館長に対する疑念が生まれそうだった。

「アリス。もみじは私が買っておくよ。たぶん、商店街より通販の方が早いし」

「うん、ありがと!」

それでも、大金や身体を差し出す違法な取引を持ちかけられているわけではないんだし、試してみる価値はあるだろう。

アリスがシャワーを浴びに行ったのを確かめてから、スクリーンショットを文字起こしに回す。短いやり取りだけど、三百バイトくらいはありそうだ。


中稲図書館に関する調査は、確実に前進していた。ちょっとしたミスはあったけど……まだ、情報収集の範囲。うん。

この町――上中稲駅前とその周辺――は、いわば中稲図書館のネットワークが抱える城下町のような存在らしい。アリスが部屋にいる間、より正確にはアリスの物理端末が部屋にある間だけ、LANを出入りするトラフィックが増加している。

町中のエンドポイントからこの部屋にやってくるパケットには特徴的な暗号化が施されており、アリスの物理端末で処理した上でさらにどこかに転送されているようだ。この中には中稲図書館のアドレスも含まれている。受け取ったパケットの三分の一ほどはこの町の外に転送されていたが、残りはまたこの町に戻されていた。

思い返してみると、いろいろと不自然な点はあった。一介の田舎町にすぎない中稲に最新の量子回線が整備されていること。町内で折り返す通信なら最高で十テラビットは出すことができること。これは、一般的に普及している一テラビット・イーサネットの十倍の速度だ。

図書館周辺に回線が整備されているのはあくまで おこぼれ だと思っていたけれど、職員の端末をリレーして政府の監視を攪乱するためだと考えれば、実用的な速度を出すために必要な措置という説明が付く。もちろん仮説だけど。

成果は他にもあった。図書館が自らのMAN内にいる職員にメッセージを送信する場合は、リレーを使わずに通信を行うのだ。おかげで、たまねぎのように何重も暗号化が施されたパケットを解析する必要がなくなった。これは、さっきアリスが見せてくれたメープル・コネクトの通信にも当てはまる。

さらに、館長が使っているメープル・コネクト――セルフホストのメッセンジャースイートらしい――はおそらく開発当時の古いバージョンのまま更新されていないらしく、暗号化に用いるOLMライブラリ2に脆弱性が残っていた。なんでも署名を通したり、数百回の総当たりで解読できるほどではないものの、条件が揃えば十分に利用できる。

「『私は外に出られないから、代わりにもみじがりに行ってきてほしいんだ』か……

絶景の紅葉に囲まれる中稲図書館なら、秋になれば飽きるほどもみじは見られるはずなのに、今までどういう生活を送ってきたのだろう。館長に就任してからずっと図書館に住んでいたとして、文字通り一歩も外に出られないならもはや軟禁と変わらない。アリスをけしかけるあからさまな嘘でなければ、また謎が残る。

まさか、館長の正体は太陽が出ている間は外に出られない吸血鬼だったとか? それなら、数十年間姿が変わっていない噂も、アリスの前に姿を現さない理由も、なんとか説明が付くかもしれない。……旧書籍を守る組織のリーダーが吸血鬼って、完全に去年観た「アナログゾンビの謎3」に引きずられてるな。

とにかく、しおりを使ってアリスを騙すなんて許せない。やっぱり、アリスは私が救わなきゃ。

パケットから復元した暗号化済みのチャンクと、アリスから受け取った――これは決して騙して入手したわけではない――メッセージのペアを解析に回す。上手くいけば、数日後には鍵が手に入るはずだ。

アリス「パンがなければしおりを食べたら?」

「マーヤぁ、ちょっと手伝ってくれない?」

「え、また館長さん?」

図書館から帰ってきたわたしの言葉が終わるより先に、キッチンに立つマヤが振り向いて面倒そうな声を上げた。いつもより勘が冴えてない?と思ったけど、流石に四回目にもなると帰宅する足音で分かるのかもしれない。わたし、今とっても楽しいから。

お仕事とは関係ない簡単な課題をこなすだけで、浦部さんがたくさん報酬をくれる――こう書くとなんだか怪しい副業の広告に見えちゃうけど、今のところちゃんとしおりはもらえている。

「そうなの。でも、ちょっといつもより時間がかかるっていうか……

大きなエプロンに着られているマヤが、氷水に漬けた小麦粉のボウルをかき混ぜていた。お母さんのお手伝いなんてかわいいね!なんて冗談を言ったらまた怒られちゃうから、わたしはそのまま今日の課題について話し始める。

この前のもみじは、できるだけ同じ形の赤と緑の葉を探してラミネートしおりに仕立ててみた。裏表に貼り合わせたリバーシブル仕様だから、赤いもみじに変わる瞬間をいつでも見られるようになっている。もみじの束と一緒に浦部さんに渡したら、とっても喜んでくれた。やっぱり、しおりをもらうならしおりで応えなくちゃね。

でも、箱を開けると赤と緑のセットでそれぞれ百枚も入っていたから、似た形を探すのがなかなかの一仕事。マヤはこれが一番コスパがいいって言ってたけど、そうやっていつも余らせちゃうのよね。丸ごと浦部さんに押し付けるわけにも行かないから、今日もこうして天ぷらにして夕食に出せるくらいたくさん残っている。

図書館のお仕事は楽しいけど単調で、その上しおりをもらうにはコツコツと努力する必要がある。五年も働いて、やっと十枚もらえるかどうか。中稲に来てからは、本を順番にスキャンしてフィルム化する作業ばっかりで眠くなる日も多かった。でも、浦部さんの課題はすごく簡単で、その上百個や二百個こなさなくてもしおりと交換してもらえるのだ。それはもう、これまで培った しおり感覚 が狂ってしまうほどに。

しおりを集めすぎて おはか がいっぱいになってしまうのを心配したり、オパールのしおりが何枚も集まって少し飽きてきちゃったかも……なんて、贅沢すぎることまで考えられるようになった。

これまでの課題は、もみじから始まって、四つ葉のクローバー、金木犀……マーヤのおかげで何とか切り抜けて、今日は四枚目だ。でも、今回は少し趣が違った。

「砂浜で花火をしてる写真? どういうこと?」

「わたしが聞きたいよぉ。遊びに行くだけでしおりがもらえるなんて、今までなかったもん」

マヤが怪訝な顔でわたしに尋ねるけど、わたしに言われても分からない。これまでの課題は、浦部さんが手に入れられないものを代わりに持ってくるという、やさしいおつかいみたいなものだった。それが今回、遊んでいる写真を送ってくれだなんて。どうしちゃったのかな。

思えば、今日は館長室をノックしても返事がなかったし、誰かの楽しそうな姿を見て気を紛らわしたくなるほど忙しいのかも。館長室で浦部さんとお話せずに、課題のメッセージだけが送られてくるのはこれが初めてだった。

「じゃあ、明日近くの砂浜に行こうか? 車ならすぐだし」

「うーん……そうなんだけどぉ、今回はやめておこうかなって」

ほんの少しの違和感が引っかかって、なかなか決心が付かない。しおり感覚が狂ってるなんて言ってみたものの、遊びに行くだけでしおりがもらえるのが変な条件なことくらいは理解できる。おつかいのお礼くらいなら何とか説明が付くけど、これは納得できる範囲を超えていた。

浦部さんから出された課題だとしても、その忙しさと疲れにつけ込んでいるみたいで流石に後ろめたい。浦部さんは忙しくて記憶が飛びがちだし、今回も何か勘違いしちゃってるのかも。この前、しおりに目がくらんで持って帰っちゃったこともあったから、何度も揉めるわけにもいかなかった。

……べ、別にいいじゃん。館長さんがくれるって言ってるんだし。行こうよ、アリス」

と、わたしが躊躇しているのを見て、なぜかマヤは油を温める火を止めてわたしに向き直る。明日までの課題の締め切りを今思い出したような、あんまり見たことない不思議な顔。山の中にこもりっぱなしだから、そろそろ外に出たかったのかしら。マヤが乗り気なら話は別だ。わたしもマヤと遊びに行けるなら大歓迎だし。

「うん、じゃあ行く! マーヤ、ありがと。また助けてもらっちゃったぁ」


「マーヤ! 風が気持ちいいよ!」

家から一番近いショッピングセンターからさらに北へ。知らない道を走るほんの少しの非日常を感じながら、車で三十分ほど助手席でマヤと話しているうちに、海の見えるガラガラの駐車場に辿り着いた。太陽が傾きかけた夕方の空に、一筋の飛行機雲が走っている。

まだ五月の城田海岸には人の姿がほとんどない。梅雨の気配もないこの時期の海岸は波も穏やかで、数日続いた晴れのおかげでよく乾いた砂がさらさらとした踏み心地を保っている。去年買った古いDAVE DROPのビーチサンダル越しに踏みしめる砂を感じながら、そっと前にもう一歩。

「アリス、あんまり走り回っちゃダメだからね」

「もー。わたし、子供じゃないよぉ」

途中で買った豪華な花火セットを抱えてAnk Rougeの白いマキシワンピース姿で歩いてくるマヤは、まるで大きな花かごを運ぶ少女のよう。歩く度に胸元の黒い大きなリボンが揺れて、彼女のかわいらしさを引き立てる。やっぱりよく似合う。

一方のわたしは、おしゃれな懐中時計を持って駆け回る白いうさぎのキャラクターがプリントされた水色の浴衣で砂浜に立っている。マヤが「もっとかわいいのでいいんじゃない?」なんて言ってくれたから、とびっきりのを出したのだ。彼女の口からそんな言葉が出たことがすごく嬉しくて、心の中で何度も反芻していた。

「花火にはまだちょっと明るいけど、軽くウォームアップしておこうか」

「うん!」

花火セットの袋を開けたマヤが、台紙から太いろうそくを取り外して砂浜に立てる。花火を楽しむ前のこの静かな瞬間を見ていると、地球の誕生日を祝っている気分になって好きだった。

その横で、わたしも袋の奥から線香花火を取り出す。隅に追いやられがちな線香花火でも、こんなに大きなセットなら前菜とデザートで二度楽しめるくらいの量が入っている。やっぱり浴衣に似合うのはこれだよね。

ワンピース姿のマヤには……赤い火花が噴き出す豪華な花火を両手持ちで。なんて思ったけど、マヤも最初は線香花火にチャレンジするみたい。

しゃがみ込んでろうそくに花火を近づけると、先から上がった炎が徐々に丸くなって火花を放ち始める。息を吸う度に先端が揺れて、わたしの心が露わになっている気がした。

「あのさ、アリス」

「どうしたの、マーヤ?」

「私、アリスのこと、今でもちゃんと好きだから」

思いがけない告白に、わたしは思わず顔を上げる。しかし、マヤはまるでわたしと目を合わせたくないとでもいうように、じっと下を見つめたまま。

そんな彼女の顔を覗き見るのと同時に、手元で弾ける火花がぽとり、と砂浜に吸い込まれていった。

「あ、落ちた。アリスの負けだね」

……と、マヤはさっきまでの真剣な表情なんて嘘みたいに、けらけらと笑ってわたしの方を向く。マヤったら、わたしを騙したのね! 人の気持ちを利用して動揺させようなんて。

先端を失ってひらひらと揺れる線香花火の頼りなさが恥ずかしくなって、わたしは勢いよく立ち上がった。

「マーヤ、ずるいよぉ。もう一回やろう? ね?」

辺りが少しずつ暗くなって、花火のための時間に変わっていく。今ならきっと素敵な写真が撮れるだろう。でも、この高揚感までは写真に残せないのが少しだけ残念だった。

マヤ「ハッキングって地味な作業が多いんだよ」

中稲図書館についての調査は、ある日唐突に終わりが訪れた。

「調査はこれで完了です。必要な情報が揃ったため、中稲図書館の爆破を進行することになりました」

そんなメッセージが送られてきてから、全く連絡が取れなくなったのだ。たぶん、依頼者が言っていた深部コアキーを入手できたからだろう。それにしても、感謝の言葉もなく随分あっさりしたメッセージだ。もちろん、報酬は気前よく先払いだったから問題ないけど。

館長が持つ鍵をクラックしてから、中稲図書館の中央システム内部に侵入するまでは時間がかからなかった。内部は想像以上に古いシステムで、探索が簡単な代わりに、いろいろな場所に怪しいデータの欠片が大量に散らばっていた。侵入が済んだ場所にボットを設置して結果を確認して……その繰り返し。やることが自明な集中力勝負で、逆に時間がかかってしまった。正直、今でもあれが「深部コアキー」なのかは自信がない。

不思議なのは、館長自身も――正確には、館長の鍵を使って――このデータにアクセスできる権限がなかったことだ。あくまで権限上の問題で、ちょっとした手順を踏めばすぐにストレージから取り出せるレベルだったものの、普段のオペレーションでこんな面倒なことをするとは思えない。では、あの鍵は誰が何のために使うものだったのだろう。今となっては、依頼者に尋ねることさえできない。

「しかし、『中稲図書館の爆破』なんて……

アリスの身に危険が及びそうになったら手を引くと言ったけど、まさか全てが終わってからこんな事態になるなんて。明日は、アリスを何とか休ませて中稲を離れた方がいいかもしれない。

こんな強硬手段に出るような相手だと分かっていたら、初めから協力しなかったのに。……と言ったところで、どうしようもない。アリスを図書館から引き離したかったのは私だし。

でも、彼女にはどう説明したらいいものか。中稲図書館が爆破されるなんて正直に言っても信じてもらえないだろうし、急に遊びに行こうなんて言ったら逆に怪しまれそうだ。それに、明日爆破されると決まったわけでもない。しおりをもらうことに躍起になっているアリスが、何日も理由なく休んでくれるとは思えなかった。

あるいは、公安庁に通報するのはどうだろう。たとえ図書館ネットが標的になっていたとしても、市民を巻き込みかねない爆破予告なら対応せざるを得ないはずだ。もちろん、この依頼者が公安庁の人間でなければ、だけど。

百歩譲って公安庁とは関係のないただのテロだとしても、また同じ壁に当たってしまう。私が「中稲図書館が爆破される可能性があります。いつ爆破されるかは分かりません」なんて素直に言ったら、最初に疑われるのは私だろう。それどころか、私はお金と引き換えにテロ組織に情報を提供してしまったのだから、実は完全に真っ黒だ。

そうなると、そもそも公安庁にこの予告を知られること自体がリスクということになる。逮捕、拘束……くらいならまだしも、これが大々的に報道されれば、図書館ネットが今より強硬な活動を進める口実を与えてしまうかもしれないし……何より、アリスに迷惑がかかってしまう。

「でも……アリスだけは救わなきゃ」


その夜、アリスが図書館から無事に帰ってきた。彼女にとってはいつもと変わらない帰り道かもしれないけど、私にとっては大きな救いだ。とりあえず、今日はこれで一安心。

「マーヤ! 浦部さんが、新しいしおり……って、どうしたの? そんな顔して」

「あ……アリス、おかえり」

監視用のボットは中央システムに置いたままだから、不審な動きがあればすぐにリレーを通ってここまで通知が来る。まさか今日いきなり爆破できるわけはないだろうと高をくくりながらも、心のどこかに最悪の事態への恐怖が残っていた。「アリス、今日は早く帰ってきてね」なんてメッセージを送ってから、部屋の中を何度も往復してアリスの帰りを待つ姿は、まるで付き合いたての恋人のようだったろう。

相手が過激な組織だと分かってからは、迂闊な行動は取りにくくなった。直接図書館に向かって危険を知らせに行ったところでまともに取り合ってはもらえないし、仮に避難まで繋げたとしても、それは明らかに相手を害する行為だ。報復のおそれがあるのはもちろん、私ではなくアリスに標的が向くことさえ危惧しなければならなくなる。

こんなこと、アリスに言ったら意味なく怖がらせちゃうだろうな。私でさえ、どうすればいいか分からないのに。

「珍しくメッセ送ってきてたけど、もしかして何かあったの?」

「いや、なんでもないよ。もみじの天ぷら作るから、ちょっと待っててね」

「そう? なら、いいけど。これ、見て見て」

アリスがリュックから おはか を取り出す。さっき言っていた、新しいしおりだろうか。

まさか、あれだけのミスをしてもまだしおりの課題が続くなんて。てっきり、館長が怒って中止にしたと思っていた。もともと、もみじやクローバーなんて、アリスを動かすための口実にすぎないのかもしれない。どうせ、もう少ししたらその企みも失敗するはずだ。

しおりをもらうのなんてもう日常じゃん、なんて思ってアリスの手元を見ていると、その興奮の理由が分かった。

「エメラルド? よかったじゃん。五月のしおりも揃ったね」

おはか の新しいポケットに入っていたのは、最近はもう見飽きたというほど慣れてしまったオパールのしおりではなく、透き通る森の空気をそのまま固めたようなエメラルドのしおりだった。中稲図書館に来てから館長はオパールばかり渡しているけど、アリスとしてはまだ揃っていない種類のしおりも欲しかったのだ。

「あ、あれぇ? どこいっちゃったのかなぁ」

「そこにあるじゃん。新しいやつでしょ?」

「違うよぉ。赤くて、もみじ色のをもらったの。綺麗なルビーだなぁって思ったのに」

七月のしおりが配られるのもおかしな話だけど、オパールのしおりを大量に持っている状況でそれを言っても仕方ないのかもしれない。妙な勘違いをしていたアリスは、まだ状況を飲み込めない様子で「おかしいなぁ」と呟きながら裏や表を撫でたり透かしたりしている。

「やっぱり、館長室でもらったのと同じだなぁ。机に置いてあったときは赤かったのに。浦部さんの手品?」

「いや、そんなわけないと思うけど……

アリスの記憶をそのまま信じると、目の前にあるしおりは、帰宅途中でルビーからエメラルドに変わった魔法のしおりということになる。そんなことがあるわけない……と思いつつ、何かが記憶に引っかかる気がした。昼は赤くて、夜は緑に変わる不思議な物質。どこかで聞いたことがあるような――

「不思議なしおりだねぇ。事務室の入室センサーにかざしたら、特別賞がもらえたりして」

「入室センサー?」

しかし、記憶を辿るより先にアリスから聞き慣れない単語が飛び出した。

アリスの話では、しおりには事務室のドアを開ける効力があるらしい。目立たない場所にRFタグでも載っているんだろうか。旧書籍保護団体が情報を隠す隠れ蓑としてはストレートすぎて、逆に思い至らなかった。そうすると、館長が何枚もオパールのしおりを渡しているのもアリスに何かを託すための作戦だった、という新たな説が持ち上がる。

一枚一枚にRFタグが一枚ずつ載っているとして、合わせても最大で十数キロバイト程度。しかし、せいぜい数千文字くらいでアリスに何を伝えるつもりだろう。数千文字くらいなら一枚のしおりで済ませばいいし、もしかしたら何枚もRFタグを載せているのかも……と、そこで、あることに気付いた。

「そうか! あれは、全部記録面だったのか」

「マーヤ、急にどうしたの?」

あのオパールの質感がホログラムディスプレイの発光面に似ているのはただの偶然で、人の目を癒やすための装飾だとばかり思っていた。しかし、あれはRFタグの入れ物なんかじゃない! しおり全体がホログラフィックメモリで、しかも最後の一枚は――

「えーとね、アリス。悪いんだけど、ちょっとそのしおりを――

《ビーッ! ビーッ!》

――と、いきなりスマートグラスが赤いエアロを何枚もポップして私の視界を塞ぐ。これは、中稲図書館に置いてあるボットのアラートだ。場所は……館長室? それに、もうエネルギー反応が出てる! どうして? あそこは一番深部だから、辿り着くのにも時間がかかるはずで――とにかく、いくらなんでも決行が早すぎる!

真っ赤になった私の視界を覗き込むアリスは、放っておいたら死んでしまいそうなほどに何も知らない無垢な顔をしていた。

「アリス、伏せてっ!」

そんなアリスを押し倒すように彼女の腰に飛びかかって、私たちはそのまま床に倒れ込んだ。

荒い呼吸がよく聞こえるわずかな沈黙が流れて、それから数秒。ドカーン!という大きな音と共に、アパート全体がミシミシと震え出す。まるで、空中で地震が起きたような揺れ方だ。部屋の窓がガタガタと不快な音を立て、屋根はゴウゴウと風切り音を鳴らし続けている。

「きゃあっ! マーヤ、何の音?」

「大丈夫だよ、アリス……

小さく身体を丸めるアリスを床に押し付けたまま伏せているうちに、部屋がやがてまた静けさを取り戻した。外では、爆発を不審に思った人たちが集まって騒ぐ声が徐々に大きくなっている。何を話しているかはよく聞こえないけど、図書館が巻き込まれていることに間違いないだろう。

私に収まってちっぽけに見えるアリスの身体がぶるぶると震えていて、背中を撫でてどうにか落ち着かせようと自分の身体を起こすと、そんな私の手も抑えられないほどに震えているのが分かった。あ……本当に、爆発したんだ。


「マーヤ! 図書館が……図書館が!」

外に出ると、中稲の暗い夜闇に真っ赤な炎が浮かんでいた。もみじ山の真ん中で燃える中稲図書館は、いつか観光協会サイトのVR体験で見た景色とよく似ている気がした。そっか、アリスは図書館が爆発するなんて知らなかったんだっけ……なんてぼんやり考えている間にも、図書館から出た山火事はどんどん燃え広がっていく。

「浦部さんが、まだ図書館にいるかも……

「もう、流石に帰ったんじゃない? 大丈夫だよ」

「だって、外に出られないって言ってたもん! きっと、病気か何かで動けないんだよぉ」

アリスがこんなに大きな声を上げるのなんて久しぶりだ。私はアリスと前にも同じような勘違いで大げんかしたのを思い出しながら、そっと彼女の背中を撫でた。今は、どんな真実を告げてもきっと受け入れてくれないだろうから。

「佐藤さんは平気みたいだけど、浦部さんの既読が付かないよぉ……マーヤぁ……

振り向いたアリスの目から大粒の涙がこぼれて、私の頬に落ちる。その涙を手で拭うと、なんとなく彼女の気持ちに引きずられてしまいそうになる。それでも、頭の片隅にはこの状況を見つめる冷静さが残っていて、私に何かを告げようとしていた。

館長は外に出られないとか、病気で動けないとアリスは言うけれど、私にはどうも彼女が騙されているとしか思えなかった。爆発直前どころか、アリスの勤務中でさえ図書館に館長らしき生体反応はなかったから。

館長室に置かれたホログラムディスプレイが接続されているのは、その隣に本棚の隠し扉で区切られた謎のデータセンターだった。このデータセンターは中央システムと異なるセグメントに置かれていて、おそらくアリスは今も存在さえ知らないだろう。

中央システムからは館長の鍵でアクセスできるところを見て、ホログラム姿を楽しむためのプライベートな計算資源だとばかり思っていたけど……まさか!

外に出られない館長。姿の変わらないホログラム。そんな館長がアリスに託したオパールのしおり――もとい、ホログラフィックメモリの数々。これだけ大きな記憶容量で何を遺そうとしているのか、どうにも予想できなかった。

しかし、やっとだ。やっと、ピンと来た。

これは館長の おはか だ。あるいは、館長そのものと言ってもいい。だから、目の前で燃えている図書館の地下に眠っている館長は死んだりしない。いや、館長なんてもともといなかったんだ。

「ねぇ、アリス」

「な……なぁに?」

「えーっと、その……

今、私がこの事実を告げずにアリスを慰めてこの場を収めたなら、館長は 死んで しまうだろう。そして、図書館ネット創設者の子孫を名乗る館長を失った中稲図書館は、再び救世主が訪れない限り今度こそ読書広場に作り替えられるはずだ。上手くいけば、徐々に図書館ネットは勢力を失って消滅するかもしれない。

そうすれば、私は……私は、アリスを図書館ネットから救い出せる。

でも、アリスはそんなこと望んでるんだろうか。館長の無事を祈って取り乱すほどの彼女が、その を受け入れなければならなくなったら、今度はどれだけ涙を流すことになるだろう。しおりのために働いているだけ、なんて決めつけていたのはもちろん私の方で、アリスにはアリスの人間関係がある。

それを切り離してまで、私は。

「アリス。もし、館長さんが無事だったら嬉しい?」

「当たり前じゃん! マーヤ、爆発でおかしくなっちゃったの?」

山火事はまだ勢いを増している。ほんのりもみじ色に照らされた右頬から、また一筋の涙が流れる。

そうだよ。親しい人に死んでほしくないだなんて、当たり前のことだ。アリスを図書館から引き離そうとするばかりで、大事なことを忘れてしまうところだった。

「分かった。じゃあ……浦部さんを、呼び戻そうか」


「マーヤ。魔法陣ができたよぉ」

しおりからデータを取り出しつつホログラム表示の準備を進める私の後ろで、アリスは五月のカレンダーを剥がしてその裏に浦部さんを 召喚 するための舞台を作っていた。エアロを紙に重ねて油性ペンでたどたどしくなぞっているだけのおもちゃだけど、悪魔信仰ってこういうところから生まれるのかも。

「もう、別にいらないって言ったじゃん」

「でもでも、浦部さんが帰ってくるんでしょ? そんなの魔法と一緒だもん」

アリスはさっきまでの絶望の表情なんて忘れたように、鼻歌を歌いながら魔法陣に細かい描き込みを加えていく。これは蘇生でも召喚でもない、ただのAIのリストアなんだけど、まぁいいか。館長室は跡形もなく消し飛んでいて、そこにしかいないはずの浦部さんを呼び戻すのだから、ある種の再臨には違いなかった。

引っ越しパックに隙間があるならと、旧居からそのまま持ってきたホログラムディスプレイが役立つときが来るなんて……こういう成功体験が無駄な荷物を増やしていくのだ。浦部さんが魔法陣の中心に現れるように、三つに分かれた立体発光器を設置していく。館長室に置いてあったものより随分古いから、本格的に使うなら買い換えないと。

浦部さんから受け取ったしおりのうち、課題をこなして受け取った五枚がホログラフィックメモリだった。四枚はこれでもかとばかりにデータを詰め込んだもので、最後の一枚だった赤と緑の――アレキサンドライトの――しおりは、特定の紫外線波長でしか読めない領域にデータを復号する鍵が記録されていた。

普通のホログラフィックメモリ用のドライブですら広くは普及していないのに、それを四枚もまとめて、さらにこんな特殊なメモリの読み込みを要求するなんてめちゃくちゃだ。私みたいなギークじゃなかったらどうなっていたことか。

無理やり解釈するなら、それほどまでに強く保護すべき対象である、という主張なのかもしれない。

「じゃあ、呼ぶね」

「うん……こっくりさんみたいでドキドキするかも」

接続状態を確認して、ディスプレイのスイッチを押す。各発光器のペアリングと数秒のウォーミングの後に、光に包まれた魔法陣から徐々に人の形が浮かび上がってきた。

「あら、やっぱりあなたでしたの」

アリスが「浦部さん」と呼んでいた中稲図書館の館長は、なぜかセーラー服に身を包む少女だった。落ち着いた色の金髪が、彼女の高貴さを引き立てる。ディスプレイの描画が安定する様子を眺めているうちに、その緑色の目と一瞬だけ視線が合った気がした。

「わーっ、浦部さんだ! マーヤ、すごいすごい!」

「ごきげんよう、アリスさん。お目もじ叶って光栄に存じますわ」

そう言って、浦部さんはうやうやしく頭を下げた。アリスによれば、館長室での浦部さんは「デキる上司」といった感じのおじさんっぽい口調だったはずだけど、目の前にいるのはいかにも育ちのいいお嬢様に見える。かわいくて、プライドが高くて、皮肉っぽい感じの。

アリスもその違和感を拭えなかったようで、ホログラムにめり込んでしまうほどに彼女の顔を覗き込んでから、もらったプレゼントが期待外れだった子供のように困った声を上げた。

……マーヤ。この人、浦部さんじゃないよぉ」

「失礼ですわね! 図書館では、館長として威厳を持って接するために、わざと演技していましたの」

スピーカーから浦部さんの大きな声が流れて、アリスがぎょっと後ずさる。左手を胸に当て、右手をこちらに向けて熱弁するそのポーズは、しかし時折指先が消えかかって危なっかしい。感情が昂るとホログラム全体に小さなノイズが入るようだ。リソースの割り当てが間に合わないのだろう。

浦部さんの演説をぽかんとした顔で聞いていたアリスは、しばらくその勢いに気圧されていたけれど、また思い出したように魔法陣に詰め寄った。

「変なの。どうしておじさんみたいな演技をしてたの? かわいい館長がいてもいいのに!」

「それは、ですから、館長というのは、パ……お父様しか見たことがなかったんです。似るのも当然でしょう?」

お父様――いや、パパ。おそらく、図書館ネット創始者の浦部槭樹氏のことだろう。若くして急死した彼の一人娘は、浦部氏の圧倒的な財力と後継者としての期待が結びつき、とうとうAIとして中稲図書館を守ることになったというのが真相らしい。

数十年の間姿を変えずに君臨し続ける、決して人前には姿を現さない謎の館長。そんなまるで不死身の吸血鬼のような噂は、今こうして目の前で全てのベールが剥がされていた。アリスをしおりで釣って騙そうとする怪しい存在なんていなかったのだと分かると、疑心暗鬼に陥っていた自分を思い出してばつが悪い心地がする。

「あ、えーと……マヤ、っていいます。あなたをここに呼んだ……その、エンジニアみたいなもので」

「マーヤったら、やっぱり初対面のおしゃべりで緊張してる!」

……うるさいな、もう」

ちょっとした罪悪感が言葉を詰まらせているだけなのに、決めつけもいいところ。初対面の人と話すなんて別に難しいことじゃないのに。そう思いながら私が完璧な自己紹介を続けようとしたところ、アリスが私の言葉を遮って他己紹介に切り替えた。

「浦部さん、この子はマーヤっていうの。プロのハッカーをしてて、わたしの、えーと……奥さんかなぁ」

急にどうしたんだろう。「奥さん」だなんて、何年か前に部屋を借りるときに不動産屋で言ったことがあるくらい。私をからかうアリスも実は緊張しているのかも。浦部さんは「あら、そうなんですの」なんてとぼけてみせるけど、彼女が私のことを知らないわけがなかった。

「マーヤさんのことはよく存じ上げておりますわ。わたくしを利用して、アリスさんと海で花火を楽しんでいたようですね」

「あ、あはは……その節は、どうも」

「よくもまぁ、外に出られないわたくしを狙ってあんな嫌がらせを思いつきますこと!」

……やっぱり。浦部さんは不機嫌そうに私を睨み付けて、それからため息をついた。窓の外に憧れる深窓の令嬢を想像すると、その気持ちの一端を汲むことはできる。それも、数十年の間ずっと。

「いや、あれはアリスをサボらせて浦部さんを怒らせようという作戦で……

「えー、わたしサボらないよぉ」

浦部さんに小声で伝える言い訳を聞きつけたアリスが、私に向かって不満そうな声を上げる。事情の分からないアリスは、自分が誘惑に負けてサボる人間だと言われたつもりなのかもしれない。でも、サボらないように頑張るとサボっちゃう魔法の仕組みで……なんて、こんなややこしい話題は直接プロンプトで言うべきだった。

「分かってるよ。アリスは無遅刻無欠勤で真面目にやってるじゃない。だから――

話を勘違いしているアリスをどうにか宥めていると、唐突に横から「こほん」とわざとらしい咳払いが聞こえる。私たちは言葉を止めて彼女に向き直ると、浦部さんは満足そうな表情で二人を交互に見つめてから、すぅと息を吸った。

「改めまして、わたくしは浦部紅葉。図書館ネットを作った浦部槭樹の一人娘です」

中稲図書館。かつて「図書館ネット」の総本山を務め、一線を退いた今でも不老不死の少女が守り続けているという。そんな彼女が今、私たちの目の前に立っている。

「十七歳で病死してから、ずっと精神を中稲図書館に閉じ込められておりました。わたくしを連れ出してくださったアリスさんとマーヤさんには、大変感謝しております」

それから、浦部さんは中稲図書館にいた頃の話を始めた。

生前に倒れてから精神を取り出され、AIとして生まれ変わった浦部さんは、父である浦部氏がちょうど買い上げたばかりの図書館の地下に隠されたデータセンターで新たな人生を送ることになった。それから今までの間、彼女が見ることができたのは、自分がいるマシンと浦部氏が使っていた館長室の中だけ。

秋になると職員から聞こえる「もみじがり」の声に、幼い頃に父の故郷で見た真っ赤に染まる山の景色を思い出し、憧れともどかしさで胸が張り裂けそうになっていたという。彼女は何度もこの座敷牢から出ようとしたものの、それは叶わなかった。

「アリスさんとマーヤさんがおいでになって、わたくしも外に出て もみじ を手に取るときが来たと確信しました。ですから、もう図書館での役目は終わらせましたの」

浦部さんの言葉を聞いて、自然と私たちの視線が窓の外へ向く。この田舎町には似つかわしくないほどに明るいままの夜空は、まるで石上の中心街にでも来たみたいだ。

それでも、図書館をすっかり焼いてしまった突然の山火事は少しずつ鎮火に向かっている。夜が明ければ、現場検証や面倒な事情聴取が始まることだろう。

「そっかぁ。図書館、燃えちゃったんだよね。明日からどうしようかなぁ。結局しおりも揃わなかったし」

アリスがため息をつく。おそらくアレキサンドライトは番外だから、まだ二枚も入手できていないしおりがある。つまり、年換算でおよそ一年くらい。しおりが全部揃う前にこんなことになるとは思わなかったから、結局のところ私の目的はあんまり達成できなかったということだ。総本山が爆破されてもなお、まだまだ心配な日々が続く気がした。

「しおりくらい、わたくしが作り方を教えてあげますから、ご自分で作りなさいな」

「浦部さん、しおりの作り方知ってるの?」

「当たり前ですわ。このしおり加工法は、元々お父様が開発した最新技術ですもの」

「じゃあ、マーヤの目をしおりにする方法教えて。一番好きなの!」

なんて怖いことを言うんだろう。アリスはエアロから「かわいい写真集」を取り出して、浦部さんに私の瞳の魅力について伝え始める。私の顔をズームしたり色の名前を検索したりして……いや、本人の目の前でやらないでほしいんだけど。

「それくらい、お安いご用ですわ。しかし……今のわたくしでは十分にお力添えできないかもしれませんわね」

いたたまれなくなったので、コントロールパネルを立ち上げてアイテムを持ったり捨てたりしながら作業するふりをしていると、また物騒な会話が続く。お安いご用では困る、と頭の中で突っ込みつつさらに聞き耳を立てていると、アリスが「どうしたの?」と相槌を打って続きを促した。

「えぇ。一度しおりに意識を移したせいか、わたくしの目や耳が衰えているようでして。これでは、きっと綺麗なしおりはできませんわ」

肩をすくめてそう告げる残念そうな表情は、いかにも演技っぽくてわざとらしい。浦部さんの目と耳は、要するにホログラムディスプレイのマイクと空間カメラのことだ。つまり、彼女をもっと綺麗に映すために新しいディスプレイを買えということらしい。

「浦部さんって、かっこいいね! 強くてクールなお嬢様って感じで」

「あら、お嬢様? そんな風に見えるのかしら。アリスさんって、楽しいお方ね」

私には、婉曲で迂遠なお嬢様しぐさにしか見えないけど。嬉しそうに浦部さんに話しかける無敵のアリスを横目に見ながら、私はプロンプトに直接メッセージを送った。

『あの五百万円、本当にもらっちゃっていいの?』

『えぇ。お部屋の隅で眠っていたものですから。うさぎ小屋の干し草代にでもお使いくださいまし』

微笑みながら放つ機嫌の悪そうな声が頭に浮かぶような返信だ。やっぱりめっちゃお嬢様じゃん、なんて思いながら外を見ると、ちょうど長かった夜が明けようとしていた。


  1. 旧書籍の普及に大きな成果を挙げた職員に贈られる賞。規模の大きな広報活動の評価として用いられることが多い。図書館ネットでは、いわゆる旧書籍が電子書籍の次世代に来るべきものと位置づけて、あえて 書籍と呼んでいた。 

  2. エンドツーエンド暗号化の根幹技術である二重ラチェットを実装したライブラリ。 

  3. 旧書籍を持って暴れ回るゾンビが街を闊歩する危険な世界で、複合型図書館を拠点に活動する電子書籍隊が平和を取り戻していくというプロパガンダ映画。フィルムマークスの平均評価では2.7点。 

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